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通院、母との面会あれから・・・ [母の事]

あれから8月に入り・・・ダリア、グラジオラスと、真夏の花が咲き・・・
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そして薄紫色のギボウシも、猛暑の中で咲き終わりました。
母入院の翌日からは私も行く、翌週は弟夫婦、そしてその翌週は私達と、変わらぬルーティーンで続いた。その間に自分自身の通院、週に二日間は自らのリハビリで通所、お互いの友人が遊びに来てくれたりと忙しかったのも事実。
以前のかかりつけ医師よりも「認知症は、坂を転がり落ちるように悪化する」と聞いていたけれど、入院生活に入った母の認知力は環境の変化によって、我々の予想を超える急激な落ち方で悪化した。
8月初めには介護保険利用の為再認定調査の依頼、ケアマネージャーさんも含めての面談とあり。
認定調査の応答で少し覚醒したのか? その直後には「皆が会いに来てくれて嬉しい」と笑顔を見せて。私の顔を認めては「○○○」と名前もハッキリ呼んでいました。

しかし意識状態は一進一退・・・であればまだ救いもあったけれど、後退するのみなのは何のための入院だったか。病院に対して私達が思う事は多くあるものの、お任せをした自分たちの甘さもあるから、これ以上は書きませんけど。
あの医院長の診断と処方、「今出ているせん妄(注意力や思考力が低下、意識の低下が起こり、時間や場所がわからない、。理解不能な言動、独り言を話す)は、二週間でなくしてみせる」の言葉は患者の為ではなく、頭の中で空いているベッドと入院費用を計算をしてのもの???との不信感がぬぐえません。大きな専門病院と言え個人病院だから、所詮そんなものでしょうけど。
とにかく一日も早く救出をせねば(オーバー過ぎる言葉にて失礼)の思いから、私達も最後は必死でした。
思えば・・・素人である我々がネット上から施設探しをしたのが間違いのもと。入院をしたからと安心などせず、先だってケアマネさんを探してお任せしたら良かったものと、後悔した部分は多くあります。

二か月半に及んだ入院生活にもようやくピリオドがうたれ、先月29日退院の運びとなった次第ながら。普通に歩いて正常に近い意識で行ったものが、退院時には車椅子となり、限られた空間のみでの生活しか許されない環境、ストレスからか?意識ももうろうとなった無表情の患者として退院。
元々厳しい一面をもちあわせた人であったけれど・・・大声を出す、暴力的な行為に及ぶと言った心配は杞憂に過ぎませんでした(今のところは)。
それにしてもあれ程人一倍シッカリ者で、何でも出来て、孫たち皆から慕われる。私達一家の中心的存在であった母だけに、そうした姿は目にするだけでやりきれない思いが強くあります。

その間に友達が送ってくれた、山梨産の「藤稔(ふじみのり)」。
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人一倍果物好きな母に、オヤツとして持参したのは勿論です。

「井川682」と「ピオーネ」を親に1985年、品種登録をされた「藤稔」。1粒が20g前後と大粒なのが特徴で、大きいものは30g以上にもなるそうです。「藤」は「富士山」の「富士」との説もあり。
旧ブログを読み返したら、勝沼の観光ぶどう園さんで買い求めたのは、なんと12年も前の夏休み!
「勝沼ぶどうの丘ホテル」に甲州ワイン、藤稔目的で宿泊した際は、まだその頃は一般的ではありませんでしたが、勝沼ぶどう投票でも上位入賞を果たしていた。藤稔の味わいを確かめねばならん~~!と、ぶどう狩りへ。
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ぶどう繋がりで・・・、家のブルーベリーは、今年は不作、採れたのはホントに少量でした。それだけに実は甘かったけど。            
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そこで朝市で買い求めたブルーベリーを使って、夫がジャムにしてくれました。ジャム熱もスッカリ冷めた夫ながら、朝はパン食ですから、家で消費する分は作ってもらいませんとね♪
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弟からは、夫あてにまたもおビール。ボンビーな我が家ですので、これでまたヱビスが呑めるという訳。

先週末は新しい施設入所後、初の様子見に行ってまいりました。本当は入所したの翌日にも伺いたい旨希望しましたが、ここでも面会は週に一度、それも県内在住者に限ると。
新たな場所で本人の気持ちはどうか、寝ているか?ご飯は食べているだろうか?施設の方に迷惑はかけていないか・・・と、心配でその間に「どう過ごしていますか」と電話で様子を聞くなどして、ようやくの訪問でした。
しかしお昼寝に入ろうとする時であったのも関係してか非常に機嫌が悪い。椅子に座って顔を寄せようとした瞬間にも「会いたくない、帰って、帰って」と、これまでにない拒否反応を示されました。
ぶつぶつ口にし続ける、母の脳裏に残る記憶。生活の大変であった頃の、苦しい記憶で占められていると想像される内容なのもサビシイ。終戦後すぐの貧しい時代に青春時代をおくった上、若くしての結婚、そして21歳の若さで私を生んだ母。あの時代は日本中の誰もが貧しく、生活していく上での苦労は想像にあまりある。
しかし子育て後は楽しかったり、嬉しい気持ちをもった時もあったはずなのに、どうした訳か?そうした想い出は残されていない様子。そんな疑問も合わせて、辛く感じられた一日。
私達は今後の大きな回復を望むわけではない(今よりも良くなって欲しい気持ちは当然ありますが)、残された日々は平穏な気持ちのまま、なんの不安もなく、穏やかに過ごしていって欲しいと願うだけです。
thanks(68) 
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