2024年夏休みは本州最北を巡る・・・⑨弘前市「旧弘前偕行社」 [2024年8月岩手・青森・秋田・山形]
これは思いつきではありません。今回で4回目となる素敵タウン弘前の街、訪問前に考えたテーマは「弘前では洋館を周ろう」
早速の弘前洋館巡り、午後は歴史的なランドマークと思われる「旧弘前偕行社」です。
まず「偕行社(かいこうしゃ)」は、大日本帝国陸軍元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官および、陸上自衛隊・航空自衛隊元幹部の親睦組織。
その歴史から、会館も旭川、弘前、金沢、豊橋、岡山、善通寺市、台湾・台南市とある模様です。
旧弘前偕行社は1907年(明治40年)、陸軍将校の親睦・互助・学術研究の集会所として設立されたルネサンス風様式の洋風建築。洋風建築を多く手がけた大工棟梁の堀江佐吉の作。
堀江佐吉が生涯に手掛けた建築数は1000件以上とされるが、そのほとんどが現存していない。消失を逃れた…旧東奥義塾外人教師館、旧第五十九銀行本店本館、旧弘前市立図書館、旧津島家住宅・・・は、偶々でしたが前回、見学する機会を得ました。
玄関正面部分は閉められていたから、記念室前からの入館。見学者入り口となる模様です。廊下には、寒冷地らしく重い外套をかける金属フックがずらり並んでいました。
漆喰塗りの天井までの高さは5m以上とあり、広々としています。
雰囲気が好きだから、つい撮ってしまう照明たち。小さな灯りに、時代を感じさせないセンスが光ってます
館内の会議室は、後述する映画「八甲田山」のワンシーンで使用されたそうです。
思わず目を見張る、アーチ型漆喰の天井飾り越しに見る、斜めに張った天井の造りの斬新さ!凝った廊下の、窓ガラスのほとんども建築当時のものと言います。
第八師団の施設なので、「8=はち(蜂)」のデザインを入れた、正面玄関ポーチに彫られた「蜂」の意匠は忘れてしまいました
偕行社には明治41年、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が宿泊された歴史も残っています。その時、偕行社の庭園を「遑止園(こうしえん)」と命名されました。
レトロモダンな風合いが美しい、赤・緑・ベージュのコントラストが、ハイカラな洋館の奥深さを演出する
中央棟、東棟、西棟の各面の屋根を装飾するドーマーウインドウも復元されていました。
旧弘前偕行社大広間を照らすシャンデリア、壁のクロス張り、ミントン製タイルが張られた暖炉は竣工当時のまま。外国製と思われる材料で造作された暖炉など、陸軍将校の社交場として往時の華やかさを垣間見た気がしました。
日清戦争が終って、軍備拡張の必要性から増設された6個師団のひとつであり、兵士はおもに東北地方出身者から構成された陸軍第八師団。
陸軍第八師団で、何か思い出しませんか?
1977年公開の森谷司郎監督作、大ヒットした「八甲田山」です。作中での台詞「天は我々を見放した」の叫びも印象深いものでした。
ロシアの満州への進出により、軍はロシアとの一戦は避けられないと予測し対露戦を準備する。内陸の八甲田山系が青森と八戸・弘前を結ぶ唯一の経路となる事で、厳冬期の八甲田山へ入る寒冷地訓練を第8師団に指示した。命令に基づく師団は1902年(明治35年)1月行軍訓練を行った。八甲田山における猛吹雪により山中で、青森歩兵第5連隊の神田大尉=北大路欣也率いる210名中、199名が凍死する大惨事が起きたのだった。
一方、徳島大尉=高倉健率いる弘前歩兵第31連隊は、総勢37名全員帰還。
どこに違いがあったのか。過酷な行軍を成し遂げた福島大尉側の経験の差、寒冷地での活動に際する周到な準備、少数である為に最後まで統率が保たれていた等。八甲田雪中行軍遭難事件を、膨大な資料と豪華俳優たちの共演で描いた一作。
厳冬期の八甲田山を舞台に極限状態での組織の綻び、自然の脅威を前に成す術もない人の生を問いかけます。
三國連太郎演じる上官・山田少佐は雪中行軍の目的をはき違えたのみならず、隊の指揮系統を乱して大量遭難を招いた張本人として描かれ・・・長尺を観客に飽きさせない役柄を担うなど、橋本忍の脚本もよく出来ていました。撮影はのちに「劒岳 点の記」を撮る木村大作。
弘前歩兵第三十一連隊が山道の案内人と頼む中には、先の小坂鉱山に関係する人物のつながりも興味深い。
スッカリ脱線をしましたが、現在「弘前厚生学院」が、「弘前女子厚生学院記念館」として保存。私のいた時間はピアノの音が響き、就業のチャイムも鳴る等、ロマンチックな雰囲気が漂っていた。
細部に至るまで洗練された建物で、平成13年には国の重要文化財に指定されています。当時の弘前が軍隊によって北東北随一のハイカラな街へと変貌していく象徴だったのではないかと感じました。
https://www.hirosaki-heritage.com/kaikosha/見学時間:9:00~16:00(土曜・日曜・祭日休館)
観終わって出る際、窓口で「向かいに太宰治の下宿先があります。よろしければ、そちらもご覧ください」と。
弘前で見るべき100の建物のひとつ、旧藤田家住宅が「太宰治まなびの家」となっていたので見学をしました。
人ひとりでちょうどくらいの狭い広縁に置かれた学習机、椅子。
太宰の部屋は思いがけず明るくて、陽だまりの中、居心地の良さそうな場所であった。
旧藤田家住宅は後の作家太宰治、津島修治が旧制弘前高校在学時の昭和2年(1927年)4月から5年3月までを過ごした家であった。修治が起居した部屋と使用していた机は当時のまま残っています。居室は2階奥の押入、縁側、出窓がついた6畳の部屋で。旧藤田家住宅は弘前市に現存する数少ない貴重な大正時代の住宅だそうです。
早速の弘前洋館巡り、午後は歴史的なランドマークと思われる「旧弘前偕行社」です。
まず「偕行社(かいこうしゃ)」は、大日本帝国陸軍元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官および、陸上自衛隊・航空自衛隊元幹部の親睦組織。
その歴史から、会館も旭川、弘前、金沢、豊橋、岡山、善通寺市、台湾・台南市とある模様です。
旧弘前偕行社は1907年(明治40年)、陸軍将校の親睦・互助・学術研究の集会所として設立されたルネサンス風様式の洋風建築。洋風建築を多く手がけた大工棟梁の堀江佐吉の作。
堀江佐吉が生涯に手掛けた建築数は1000件以上とされるが、そのほとんどが現存していない。消失を逃れた…旧東奥義塾外人教師館、旧第五十九銀行本店本館、旧弘前市立図書館、旧津島家住宅・・・は、偶々でしたが前回、見学する機会を得ました。
玄関正面部分は閉められていたから、記念室前からの入館。見学者入り口となる模様です。廊下には、寒冷地らしく重い外套をかける金属フックがずらり並んでいました。
漆喰塗りの天井までの高さは5m以上とあり、広々としています。
雰囲気が好きだから、つい撮ってしまう照明たち。小さな灯りに、時代を感じさせないセンスが光ってます
館内の会議室は、後述する映画「八甲田山」のワンシーンで使用されたそうです。
思わず目を見張る、アーチ型漆喰の天井飾り越しに見る、斜めに張った天井の造りの斬新さ!凝った廊下の、窓ガラスのほとんども建築当時のものと言います。
第八師団の施設なので、「8=はち(蜂)」のデザインを入れた、正面玄関ポーチに彫られた「蜂」の意匠は忘れてしまいました
偕行社には明治41年、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が宿泊された歴史も残っています。その時、偕行社の庭園を「遑止園(こうしえん)」と命名されました。
レトロモダンな風合いが美しい、赤・緑・ベージュのコントラストが、ハイカラな洋館の奥深さを演出する
中央棟、東棟、西棟の各面の屋根を装飾するドーマーウインドウも復元されていました。
旧弘前偕行社大広間を照らすシャンデリア、壁のクロス張り、ミントン製タイルが張られた暖炉は竣工当時のまま。外国製と思われる材料で造作された暖炉など、陸軍将校の社交場として往時の華やかさを垣間見た気がしました。
日清戦争が終って、軍備拡張の必要性から増設された6個師団のひとつであり、兵士はおもに東北地方出身者から構成された陸軍第八師団。
陸軍第八師団で、何か思い出しませんか?
1977年公開の森谷司郎監督作、大ヒットした「八甲田山」です。作中での台詞「天は我々を見放した」の叫びも印象深いものでした。
ロシアの満州への進出により、軍はロシアとの一戦は避けられないと予測し対露戦を準備する。内陸の八甲田山系が青森と八戸・弘前を結ぶ唯一の経路となる事で、厳冬期の八甲田山へ入る寒冷地訓練を第8師団に指示した。命令に基づく師団は1902年(明治35年)1月行軍訓練を行った。八甲田山における猛吹雪により山中で、青森歩兵第5連隊の神田大尉=北大路欣也率いる210名中、199名が凍死する大惨事が起きたのだった。
一方、徳島大尉=高倉健率いる弘前歩兵第31連隊は、総勢37名全員帰還。
どこに違いがあったのか。過酷な行軍を成し遂げた福島大尉側の経験の差、寒冷地での活動に際する周到な準備、少数である為に最後まで統率が保たれていた等。八甲田雪中行軍遭難事件を、膨大な資料と豪華俳優たちの共演で描いた一作。
厳冬期の八甲田山を舞台に極限状態での組織の綻び、自然の脅威を前に成す術もない人の生を問いかけます。
三國連太郎演じる上官・山田少佐は雪中行軍の目的をはき違えたのみならず、隊の指揮系統を乱して大量遭難を招いた張本人として描かれ・・・長尺を観客に飽きさせない役柄を担うなど、橋本忍の脚本もよく出来ていました。撮影はのちに「劒岳 点の記」を撮る木村大作。
弘前歩兵第三十一連隊が山道の案内人と頼む中には、先の小坂鉱山に関係する人物のつながりも興味深い。
スッカリ脱線をしましたが、現在「弘前厚生学院」が、「弘前女子厚生学院記念館」として保存。私のいた時間はピアノの音が響き、就業のチャイムも鳴る等、ロマンチックな雰囲気が漂っていた。
細部に至るまで洗練された建物で、平成13年には国の重要文化財に指定されています。当時の弘前が軍隊によって北東北随一のハイカラな街へと変貌していく象徴だったのではないかと感じました。
https://www.hirosaki-heritage.com/kaikosha/見学時間:9:00~16:00(土曜・日曜・祭日休館)
観終わって出る際、窓口で「向かいに太宰治の下宿先があります。よろしければ、そちらもご覧ください」と。
弘前で見るべき100の建物のひとつ、旧藤田家住宅が「太宰治まなびの家」となっていたので見学をしました。
人ひとりでちょうどくらいの狭い広縁に置かれた学習机、椅子。
太宰の部屋は思いがけず明るくて、陽だまりの中、居心地の良さそうな場所であった。
旧藤田家住宅は後の作家太宰治、津島修治が旧制弘前高校在学時の昭和2年(1927年)4月から5年3月までを過ごした家であった。修治が起居した部屋と使用していた机は当時のまま残っています。居室は2階奥の押入、縁側、出窓がついた6畳の部屋で。旧藤田家住宅は弘前市に現存する数少ない貴重な大正時代の住宅だそうです。
洋館巡りとは素敵です。旧弘前偕行社。明治、大正は日本人の美意識も、昭和以降とはかなり違っていた印象があります。こうした建物は内部も隅々まで神経が行き届いているようですね。照明のひとつひとつをとっても、ただ単に欧州の真似をするのではなく、日本人ならではの繊細な工夫が行きとおっているのでしょうね。色彩にしても、地味過ぎず、派手過ぎず、絶妙の美しさを感じます。
「八甲田山」は観応えたっぷりの作品でした。何と言っても常軌を逸したかのような過酷なロケ。素晴らしい俳優陣。そして全体を統べる真の映画スター高倉健の圧倒的オーラ。やはりこのような映画には人が集まります。
わたしは前から三島由紀夫派なのですが、このところ太宰治もけっこう読んでます。作風がヴァラエティに富んでいて、アヴァンギャルドな作品も多く、おもしろいです。
リンクしてくださった過去のお記事、拝読させていただきました。浅田次郎、おもしろそうです。何か選んで、読んでみたいと思います。RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2024-09-08 00:01)
偕行社の建物何かに似てるなぁと思って見ていたのですが、仙台市歴史民族資料館でした。第四連隊の兵舎だったところなので
by mau (2024-09-08 00:29)
旧弘前偕行社は、知らないけど立派な建物だね。
by 英ちゃん (2024-09-08 00:46)
末尾ルコ(アルベール)さんへ
この建物を知ったきっかけは何だったのでしょうか。しかし訪問された方のお写真を見て、この佇まい、屋内の細部の造り、特に廊下の造作には魅せられました。外観の色彩感覚も、現代とは違っている部分が興味深く思えます。
ビルがコンクリートの四角い、色合いもグレー一色となったのも、戦後のもののない時期からと思えてならないのです。かつての日本人は積極的に欧米の文化を取り入れつつ、そこに余裕や、自らの美意識ももちつづけていたと。
度々放送されて観る機会のある「八甲田山」、目の前で繰り広げられる命の危機が実感させられる、厳冬の八甲田雪一色の世界。そこで繰り広げられるのは命がけの、雪焼けの為に黒くなった男たちの群れ。誰が誰とも見わけのつかない中で一際放たれていたのが高倉健の確かさでした。
撮影は木村大作、監督作品「劒岳 点の記」も納得の迫力でしたが、スケールの大きさでは数倍上回りますものね。
私の読書感想文ですか、あまりに稚拙で恥ずかしいですけど。浅田次郎のストーリーテラーとしての手腕は、格別と補償いたします。
太宰治の書いた作品たち、そのヴァラエティぶりですか。それは、確かに。
by hana2024 (2024-09-08 00:47)
mauさんへ
仙台にも偕行社。今に残って、仙台市歴史民族資料館ですね。
英ちゃん さんへ
当時の日本軍、明治政府の力量も感じさせる建物でした。
by hana2024 (2024-09-08 00:54)
お早うございます、ユネスコ世界文化遺産(白川郷)に
コメントを有難うございました。
弘前は桜を見に行っただけで、偕行社の建物は知りませんでした。
機会が有れば立ち寄って見たいところが増えました。
by tarou (2024-09-08 10:31)
おぉ~広い会議室ですねぇ。
素敵な照明ばかりで、そのまま社交ダンス会場になりそうな!
特に最後の画像の照明、むちゃんこオシャレです。
斜めに張った天井、ちょっと三半規管がやられそうですが、
とってもカッコ良いですね!
by まつき (2024-09-08 10:45)
tarouさんへ
こんにちは。
日本陸・海軍の歴史の中で生まれた偕行社、その会館と、会館を元にした博物館等は、全国的なものと考えられます。
まつきさんへ
当時の日本陸軍は将校たちでも、そこまでの生活レベルではなかったようです。人々が集う集会場的な役割がほとんどであった模様。
抑えた色彩ながらも、意表を突く斬新さが見られる、長い廊下の天井デザイン。訪問された方の写真を見てから、自らの目で確かめたい!の気持ちに駆られたのでした!
by hana2024 (2024-09-08 11:04)
暖炉のミントン製タイルがステキ!!!割れたりせずに残っているのは奇跡ですね。窓ガラスも現存していることに感動しました。
旧古河邸も素晴らしいと思いましたが、旧弘前偕行社のイタリア・ルネサンス風建築の美しさ、いつかぜひ見に行きたいと思います。
by 溺愛猫的女人 (2024-09-08 14:43)
2枚目と3枚目の窓枠や出入口の枠の感じが
どこか懐かしいような気がします
小学校の校舎がこんな感じだったのかな?
by コーヒーカップ (2024-09-08 17:32)
一年ほど前から弘前の旅行を計画していて旅前ノートを作成しています
洋館巡りプランに旧弘前偕行社をチェックをしていませんでした
昨年は青森から十和田市までの一人旅でしたが
リンゴにアレルギーのある私には、青森は少しハードルが高くて
次回は主人を連れてリンゴが入っていたら食べてもらう予定です(^^ゞ
by SWEET (2024-09-08 21:02)
私も灯りが好きです♪
豪華なお部屋のシャンデリアも素敵だなぁと思いますが、
こういう感じの職人さんの技とか遊び心とか
建て主さんの拘りみたいなのが伝わってくるのが
心にずんと来ます(#^^#)
by Rchoose19 (2024-09-08 21:02)
溺愛猫的女人さんへ
旧弘前偕行社は1907年、明治40年建設の建物です。第二次大戦中の空襲を逃れた弘前の街。
ミントンのカップ&ソーサーは家でも愛用していますけれど、100年以上前のタイルが、一部は破損とは言え、よくぞ残されていた!の気持ちになったのは同じでした。
コーヒーカップ さんへ
田舎育ちの私、年齢的にも小中と木造校舎でした。
窓のサッシは当然、木製だから隙間風も容赦なくて・・・(^^;
SWEET さんへ
旅の準備が一年前からですか? そして、ノートも?
それくらい入念にでしたら、ついウッカリもなくて安心、安全なご旅行になると想像致します。
市内の主な建物は、ほぼ弘前城の周辺に集まっていますもの!
車でしたら問題のない距離、旧弘前偕行社の趣ある佇まいも中々と思いませんか♪
Rchoose19 さんへ
お気遣いをさせてしまって、申し訳ありません。
昨日は歯医者さんへの通院も無事に終わりました。Rchoose19 さんも勿論でしたでしょうね^^
ひとつひとつ手を抜く事のない、職人技の結晶ですね!しかもそこにキラッと光るセンスや、遊び心もある。伝統工芸へとつながる気が致します。
by hana2024 (2024-09-08 22:16)
クルリンとした照明、中学生の頃から身悶えするほど好きでやす!
ピッカピッカで、とても手入れの行き届いた立派な建築物でやすね!
by ぼんぼちぼちぼち (2024-09-09 10:53)
ぼんぼちぼちぼちさんへ
曲線を活かしたアールデコ調デザインには、私も惹かれます。
これだけの規模の施設の維持、管理は伺ってみて大変に感じました。
by hana2024 (2024-09-09 15:21)