先月の30日に行った時には一緒にスーパーへ買い物へ行って、品物を選ぶ、レジの機械で精算と出来ていたのでしたが。
通院の付き添いも兼ねて泊まりに行った翌週の弟、金曜~日曜日まで世話していたところ。お昼ご飯を一緒に食べ終えてから帰る予定をしていたと言います。
ところが母:「この間からずっと泊まっているようですが、あなたはどこのどなたですか?どうして家に入って、自分の家のようにしてご飯を作ったり、食べたりしているのかわからない」その挙句に「あなたの事は信じられない、あなたの奥さんをすぐ連れてきてください」「お願いですから、今すぐに帰って下さい」とエスカレートするばかり。

無理やり追い出されたとの連絡あり。
「そうは言われたけど今の様子は心配だから、もう少し時間を置いて、どうしているか見てからにする」と、弟本人・・・。
直後の母の電話も「家にずっと変な男が泊まっていて、親切は親切なんだけど、どうにも気持ちが悪くてしかたない。今頼んで帰ってもらったの。もう二度と家には来させない」と言います。
「でもその人はお母さんの息子、私の弟の〇〇でしょう?他の人が家にいるなんてありえないんだから」と話しても・・・「いや、違う。あれは〇〇なんかじゃない」
母の中では弟はきっと、何時だってニコニコした笑顔の可愛い子供のままなのでしょう。60過ぎたオジサンがニコニコなどしているはずもないのに、、、でも私から見ても、母と私が会話をしている様子を見る目つきは鋭く、人相も決して良くはない#59136;
・・・今になってみるとこの時、我が家へ連れてきてもらったら良かったのかもしれない。今更もう遅いけれど。
それから弟は近くの空き地で時間をつぶした後、これ以上刺激したらまずいから、お隣りへせんべいの手土産をもって「自分はこれで帰りますが、様子がチョッとでもおかしかったらすぐに連絡して頂けますでしょうか」と頼み、帰宅の途へ。
その夜も、翌月曜日も「美容院へ行ってサッパリとカット、マニュキアで髪も染めてきたから」とハイテンションでした。「それは良かった。今夜はお風呂も入らないんでしょう?」…と言った調子でいたのでしたのに…。
その後で小脳梗塞を発症したのか、「もう食べるものがない。ご飯がなくてどうしよう」「このままじゃ死んじゃうかも」と続いて。。
水曜の夕方ついに母の感情が、大爆発したのであった。
水曜の昼までは頻繁にした連絡ながら、それから「怖くて電話が出来ない」でいたのは私も、弟も同じでした#59142;

水曜夜、弟に迎えに来てもらい、二人して実家へ向かいました。
そっと庭のフェンス、ドアのかぎを開けて「マズイ。明かりが灯ってまだ起きている。困ったな!」と、泥棒状態の私達。
「こんばんは、遅くなったけど来たよ」と無理やり笑顔を作って声をかけたら、「こんな時間にどうしたの?」と比較的穏やかな表情でした。
しかし普段は綺麗好きな母なのに、お台所のシンクには食器、お鍋、フライパン等がゴチャゴチャ汚れたままで、それにも驚かされました。

        
会話が長くなると途中からかみ合わない、話がそれていってしまう…それは昨年頃からみられた状態でしたけれど。
87歳半、父が亡くなってから22年間ずっとひとりで暮らして、自宅と、自身の生活を守り続けてきた母でした。
物の名前が出てこない、過去の出来事や想い出も忘れてしまう。自分の頭の中が今、どうなっているのか?その辺りの不安からか、ここ数か月携帯電話の使い方、家電の番号も盛んに気にしていた。後になってみれば、一人ぼっちでいる間悪い事ばかりが頭の中を占めていたのでしょう。
「どうして、こんなにバカになっちゃんだろうね」ともらした時がありました・・・それでさえ、「私達だってそれは同じ、すぐに色々忘れるし、毎日探し物をしているよ」って、慰めともつかない言葉で、私自身この時の来るのをまだ先と誤魔化し続けていたのだ。

「あなた達に迷惑をかけないように、頑張るから」が、母の口癖でした。
しかし限界ぎりぎりまで頑張り続けて、身体も、心も、頭も悲鳴を上げてしまったと考えられます。
そこまで追いつめられる手前で、どうして?「家に来て一緒に暮らそう」と手を差し伸べられなかったのでしょう。・・・私自身同居してからの日々が、怖かったのだと思う。本当にごめんね#59136;
それでも夜間に一人で倒れて、ずっと誰にも気づかれずにいる。最も恐れていた、そうした状況でなかったのだけは救いです。
「お腹空いてる?」と、弟が来るまでの間に急いで作ったおむすび、筍の煮物、焼き肉&野菜炒めを少し食べてもらいました。

一夜明けてから朝食を済ませて、夫にも顔を出してもらって一安心。
夫の顔はわかるのに、一番愛していた息子の顔を忘れてしまったのは理解に苦しむばかり。でも仕方がありません(-_-;)
午後は冷蔵庫内のありあわせで、お昼ご飯に。

その後はテーブルにあった塩飴、「StMichel」ガレット・サンミッシェルのガレット、「東京魚河岸」舟めぐり(海鮮煎餅詰め合わせ)…のおやつを食べて、寝て、また起きても・・・居るのを確認しては安心した顔つきに(*´ー`)
病気で倒れて不自由な身体になってしまった私でも、ずっと頼りにしていたんだね#59143;

お隣で頂いた群馬県板倉町「おぎの屋」の雷電の里、胡桃入り小女子の佃煮です。
     
おうどんを茹でて、あるもので天ぷらを揚げて、青菜のお浸しに、鮭缶とキュウリの和え物。
これが母の自宅での、最後の晩ご飯となってしまいました。(まだ生きてはいますが)、自宅へ戻るのは多分叶わないと覚悟をしています。
しかし母、我々兄弟と3人でビールで乾杯、グラスで三分の一くらいは呑んだと思う。
本人もご機嫌で、そのあとシャワーも浴びてサッパリとして落ち着いていた。  とても良い夜でした。

        
翌日の検査、診察ののち、その場で決まってしまった入院です。
CT画像に写った脳海馬の萎縮、脳内に数多くみられた小脳塞痕。医師の言うにはこのまま入院するしかないと。
一人で知らない人たちの中へ置いておかれた心細さから、昼食は拒否。案内された自分の個室へは夜まで入らなかったと言います。
翌日曜に行って担当看護師さんに様子を伺ったら・・・夜はよく寝ていらしたし、多少のバラツキはあるものの夜、朝と食事を撮られて、他の患者さんにも話しかけるなどされていますから、少しずつ馴染んでくださると思います。…との言葉。

これを機に本人の安心できる場所で、心静かに、出来ればホンの少しの楽しみでも見つけ生きていって欲しいです。

主のいなくなった庭で咲いた、紫陽花の花々。激しい雨にうたれて、葉と花が雨に濡れた様子は美しい。
季節はすでに、梅雨ですね。