別に寺院マニアでも何でもないのですが・・・
5月に訪問したものの、アップしそびれていた…足利市の名所のひとつ「鑁阿寺(ばんなじ)」について紹介させて頂きます。
鑁阿寺の境内の広さは約12000坪あまり、周囲にはぐるっと壕と土塁をめぐらして4門が建立されています。
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikaga-kankou/i-bannaji.html


こちらを通して本堂が見えたので、北門から中に入りました。
訪れた日、北門前の奥の院通りでは(毎月第2日曜日、開催をされると言う)フリーマーケット「じけんち市」のテントが立ち並ぶ様子も見られました。



境内の中を周って本堂へとたどり着きましたが、人の多さから中が見えるところまでは上がりませんでした。
内部に祭られている本尊は、源氏相伝の守本尊である「大日如来」です。

            
寺の創建は建久7年(1196)、足利義康が屋敷内に堀内御堂を建立し持仏である大日如来像を祀ったのが始まりとされています。
本堂は明治41年に国宝に指定され、昭和8年から2年間解体修理を実施。戦後文化財保護法の改正によって重要文化財の指定となりました。
屋根の一部分だけを切り取ってみても、寺の長い歴史、意匠をこらした建物の様子が伺えます。

「鑁阿」はサンスクリット語の大日如来を意味する「バンナ」の発音に漢字を当てはめたもの、漢字自体には意味はないとか・・・
鑁阿寺は大きな火災などが少なかった為、本堂や鐘楼など古くからの建築が残り、多数の寺宝を所持しているのだとか。。
境内は鎌倉時代に築かれた足利氏の館跡で、水掘や土塁など良好に保存されていることから、大正11年に国指定史跡(日本名城100選)に指定されています。

文暦元年(1234)三代目義氏が堂塔伽藍を建立や境内の整備をし、代々足利氏の氏寺としました。
足利氏の衰退とともに一時は衰え、豊臣秀吉の兵火などによりお堂の一部を焼失しましたが、天正19年(1591)徳川家康が寺領60石を寄進し鑁阿寺を再興します。
江戸時代に入ってからも歴代将軍に庇護され、特に5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院は元禄5年(1692)に、こちらの多宝塔を造営しました。
天然記念物である大銀杏。以下も、案内板を参考にして。。。


鑑定によれば樹齢約550年といわれる。
周囲約9m、高さ約30mで、往古から避雷針の役目を果たし諸堂の災厄を守護した。


山門と太鼓橋、こちらの二つは栃木県指定の文化財です。どちらも撮り方のせいで傾いて写ってしまってます。シツレイ!

山門(仁王門)は開基足利義兼公が建久7年(1196)創建したが、室町時代に兵火にあい、永禄7年(1564)足利幕府13代将軍足利義輝の再建だそうです。
江戸時代の安政年間に再修されたのは、丸いアーチ形の太鼓橋です。

これまで近くに住んでいながら、何時でも行けるからと思っていたのがいけなかったようですね。深い歴史を刻む由緒ある寺院は、やはり行ってみるべきところでした。


東門です。境内の向こう側の西門と共に栃木県指定の文化財とされています。
この門ひとつとっても現在の技術にしても困難であろう、迫力が感じられる堂々とした造りです。


周りを取り囲む堀は、濃い緑が美しい。

足利市民からは「大日様」の呼び名で親しまれている…寺の境内では毎年2月は武者姿の市民が参集して追儺を行う「鎧年越」、5月には「春季大祭」、9月には薪の燈だけを明かりに能を舞う「薪能」 など様々な催しが行われている。

八百年の歴史を有する足利氏一門の氏寺「鑁阿寺」と並んで建つのは、最盛期には三千人の学徒が集ったと言われる日本最古の総合大学「足利学校」です。
学校内で毎年行われる文書の天日干しは、年に一度の風物詩となっています。

鑁阿寺も足利学校もどちらも自分の足で歩いてみて、これ程広大な場所が街中に鎮座している事に驚かされました。
歴史のまちであり、学問のまちを散策して歩いた一日。
次回は桜の咲く季節にでも訪れてみたいと思います。
しかし毎年8月に開催する「足利花火大会」は、県内有数の盛大な花火大会であり・・・子供の頃に私も両親に連れられ、見に行ったのを思い出しました。