那須の地で以前から行ってみたい。興味を持っていたのは、県立那須拓陽高校の敷地内にある大山記念館=旧大山巌別邸でした。


那須塩原市には現在、国指定・県指定を含め・・・168件もの指定文化財があるのだそうです。
道の駅「明治の森・黒磯」には・・・ 明治時代、ドイツ公使や外務大臣を歴任した青木周蔵が那須別邸として建てた建造物である旧・青木家那須別邸。
訪問時の日記は、http://hana2009-5.blog.so-net.ne.jp/2012-08-07
また、あまり知られていない模様ながら・・・矢板市には、山縣有朋記念館もあり。。http://plaza.rakuten.co.jp/hana7899/diary/200711290000/

元々那須野ヶ原は那珂川と箒川に挟まれた広大な扇状地で、五街道のひとつである奥羽街道が走り古くから白河へ向かう重要な幹線でした。
しかしそのほとんどは奥州街道より南側に位置しており、北側一帯は日本有数の荒野が広がっているだけだった。
そこで明治の初期から中期にかけて、この一帯の開拓を目的とした大農場が次々と展開された場所でした。
大半は明治維新の英雄である元長州藩士、当時の政府の中枢を担った華族達です。
http://www.city.nasushiobara.lg.jp/bunkazai/index.html

大山別邸は、那須拓陽高等学校の敷地内にあり、見学には事前の連絡が必要であるから・・・チョッと面倒となってしまうのは否めません。


維持、管理を行っている関係から、内部を見学できるのは平日のみ(要事前連絡)だそうです。
別邸の周辺はその名も「大山農場」という実験農場になっています。大山農場の名前は、現在もまだ残されていました。

             
大山巌は戊辰戦争、西南戦争で従軍し功績を挙げた・・・陸軍大臣、陸軍大将。西郷隆盛とは従妹同士の関係。
明治27年には日清戦争で第2軍司令官として、海軍とともに旅順攻略を果たします。


探していた大山別邸は、農場の跡地に。建築された別荘は洋館と、和風建築の建物と・・・二棟が並んだ続きの建物として残されていました。

     
明治35年(1902)、奥の郷里鹿児島風の和風の別邸が建てられ・・・
明治末期に、農場で焼かれたレンガを使った洋館の建築がされたのだそうです。


大山は大正15年に亡くなり、東京で国葬が行なわれたのち埋葬されました。彼は那須の地をこよなく愛されたとの事。
                            
開設以来、華族世襲財産法によって、土地の売却はほとんど行われませんでしたが・・・
戦後の農地改革、未墾地解放によって農地や山林の多くが解放されて、事実上農場は解体したのだそうです。
大山と夫人の眠るお墓も、ここ大山別邸の近くにあるそうですが、そちらの見学は不可。

現在放送中の大河「八重の桜」で、大山巌を演じるのは反町隆史。相変わらずカッコイイですね!年齢と共に渋さも出てきたように感じられます・・・
写真で見る実際の大山巌は、薩摩の将らしくいかにも朴訥としたイメージが強いものの・・・。
大河ドラマは、不器用なくらいひたすらに信念を貫いた義理堅い真面目な会津藩主・松平容保を静かに熱く演じた綾野剛の演技がまだ心に残るものながら。。
家族を失い、自らの信念をも否定された・・・傷心の八重の心を癒す存在となる誠実な夫、新島襄にはジョーつながりでオダギリ・ジョー。
新島襄が、妻の八重を語った言葉、「彼女は見た目は美しくはありませんが、生き方がハンサムなのです。私はそれでじゅうぶんです」
八重について語った名フレーズ、「ハンサムウーマン」エピソードのひとつは・・・彼の誠実な人柄を物語る、妻への愛情に満ちた名言です。

この地は明治14年に那須開墾社から、大山巌と西郷従道=西郷隆盛の弟に分譲された土地。
妻に先立たれた大山の将来を考え、後添えとなる女性を探す過程で、白羽の矢が立った相手が新政府留学女学生のひとりとしてアメリカ留学から帰ってきた。英語は勿論、フランス語やドイツ語にも堪能であった山川捨松。山川家は会津藩の家老まで務めた家であった事から、その結婚は意に反したものと想像されますが・・・
しかし大山巌夫人となった捨松は、後に鹿鳴館を舞台にして華やかな活躍を見せ。。当時の日本政府の外交の一端を担ったのでした。



現在に至るまで乃木大将として親しまれている、乃木希典。
次に向かったのは、乃木希典那須野旧宅(のぎまれすけなすのきゅうたく)でした。
地元では一般的に、乃木神社としてのみ知られているそうで。。。
園内には他に乃木別邸・・乃木清水と呼ばれる・・・湧水地。
市街とは言え圧倒的な自然の姿を今に残す、乃木神社があり・・・
私達以外にも、参拝客、観光客、カメラマンの姿も目にしました。


800mにも及ぶと言われる神社への参道。両側にはズラリと桜が植えられている。この様子では・・・きっと春の桜並木は見事なものに違いない。


澄んだ清水が流れる、蟇沼用水。
周辺に人家が立ち並ぶとは思えない、清らかさなのです。


乃木神社と言うと都内赤坂の、乃木夫妻が自刃した邸宅隣地が有名ながら・・・


境内の一角に展示された、乃木の愛馬「殿号」。乃木大将の像が映り込んでいるのも、わかります?

奥へ進むと・・・

近くの用水から取水されている、乃木夫人=静子にちなんで名付けられた沼、静沼です。
私達が訪れた時に、目の前ではカルガモの泳ぐ姿が見られました。



乃木希典が明治24年に求めた別荘は・・・・
生涯に四度の休職を経験しえているが、休職中もこの地では多くの時間を過ごして、晴耕雨読の日々を送りました。
別邸に来ると自ら鎌や鋤を手に畑仕事に勤しんで農民たちとも親しく付き合うなど、この地の田園生活をこよなく愛したと言われています。

               
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を原作としたのテレビドラマの中でも、那須で生活する乃木の元へ、地元の若者と村人が日露戦争への出征の挨拶に訪れるするシーンは印象的でした。
身分の違いを越え、座敷に上げて歓待する乃木の気さくな人柄。
当時の農民たちの圧倒的な貧しさが、垣間見える生活ぶりもです。

明治天皇の崩御に殉じて、覚悟の殉死をされた乃木夫妻。そして大正5年、乃木希典・静子を祀る乃木神社が創建されたのです。
                        

現在放送中の大河ドラマの主人公たちの生涯に思いを馳せた、ドライブの後半。
明治の元勲たちの足跡の残された・・・那須野ヶ原の開拓の歴史。
明治の高官達の開拓農場の拠点として建設された建築物からは、当時の上流階級の生活が垣間見られて・・・。
これらは開拓の歴史を今に伝える史跡であると共に、貴重な文化遺産でもあると思います。。