王道とも言える「大浦天主堂」と、明治日本の産業革命遺産は前回の訪問で観光していたので、「眼鏡橋」の♡ストーンも発見済みであったけれど、それでも市内観光もしていきたい。
チェックアウトの前に、長崎「出島」の一か所だけ観てきました。
      
こちらは当時の全体図で、正式名称は「出島和蘭商館跡」と言うらしい。
出島は1634年江戸幕府の対外政策の一環として長崎に築造された人工島で、扇型をした土地の面積は3,969坪。周囲は2.7mの高い練塀で囲まれていました。

ホテルから歩いて行ったものだから、始めは入り口もわからなくて、出島橋を歩いてしまいました。

この場所からは、旧出島神学校、明治36年に建てられた旧長崎内外クラブ等が身近に見られます。

    
15分の1のミニチュア出島の模型で、全体像も見られました。1820年ごろの出島を描いたとされる「長崎出島之図」を参考に再現したものとか。


こちらが、1990年(平成2年)に復元された「表門」です。2017年には「出島表門橋」も架けられ、当時と同じく表門橋から入場できるようになりました。

元の出島は、明治期の中島川変流工事によって削られた…川の中央付近まで位置していたと伺いました。
江戸時代には対岸の江戸町側から表門橋を渡るとこの表門があり、詰めていた探番(さぐりばん)が
出入りする人を改めていたそうで、この時も門前には黒っぽい着物を着たスタッフの姿がありました。
最初は適当に見学していたものも、、表門から出入りする人を監視するために出島の管理者である「乙名(おとな)」=「組頭」スタイルの歴史スタッフが説明しながら案内する「出島ガイドツアー」があると知って参加しました。
まずは「新石倉(総合案内所・出島シアター」で申し込みし、阿蘭陀通詞(オランダつうじ)による出島案内の映像での説明。その後はスタッフの解説を受けつつ、乙名詰所から見て回るコースです。
    
「筆者蘭人部屋」、スパイスとして使用されてきた生薬「丁子」が出島にもたらされた「十六番蔵」=「丁子蔵」。
オランダ商館長(カピタン)の事務所・住居となる「「カピタン部屋」。
西洋と日本の文化・学術・貿易品が最初に出入りした象徴的な建物「水門」が最奥に。2つの通り口のうち南側は輸入用、北側は輸出用に使われていました。後ろのビルがホントに邪魔です事#59142;
皆さんよりどうしても遅れ気味となってしまう為、写真を撮っている時間はありませんでした#59142;

考古館1階では、日本から西洋に伝わった磁器、逆に西洋から日本に輸入された陶器などの展示がされて。
幕末の商社の石倉であった旧石倉は、出島の発掘調査によって出土した遺物中心の展示。

考古資料の中には坂本龍馬と出島、海援隊と蘭商ハットマンの間において小銃の取引が行われたとあり。坂本龍馬と言えば「亀山社中」。貿易商社と言った意味で、後には「海援隊」となるのですが、龍馬が商談のため出島を訪れたこともわかりました。


1500年代からの対ポルトガル貿易、江戸幕府はキリスト教の布教を阻止する為に市内に雑居していたポルトガル人を収容する目的で築造、25人の有力な長崎町人の出費により完成した。それが出島です。
1641年から1859年まではオランダ東インド会社を通して対オランダ貿易が行われました。 完成して200年もの間「出島」は、わが国で西欧に開かれた唯一の「窓」として日本の近代化へも役割を果たしてきました。
明治以降は長崎港の港湾整備に伴う埋立等により、扇形の人工島であった頃の面影は失われますが、日本だけではなく世界史上においても「出島」は貴重な歴史的遺産であって。。1922年「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されているのでした。

グラバー邸のもうひとりの住人、グラバーの息子・倉場富三郎が、明治36年F・リンガーにより建立された建物。長崎の外国人と日本人の社交の場として利用された「旧長崎内外倶楽部」も残っています。
短時間に江戸から明治期の長崎の一端を垣間見ただけながら、近代日本への営みは興味深いものがありました。

しかし、ここで問題発生#59138; 私は歩くのが遅い。懸命に歩いても普通の人の3倍はかかります。
このペースでいったら、ホテルのチェックアウト時刻を過ぎてしまいそう。ホテルとの中間には、長崎中華街の店々、「北門」だったかな?もあったけれど、写真など撮っている場合ではありません。
そこで夫が「ホテルへは一人で走って荷物を取ってくるから、あなたは車の駐車場で待っていて」と。だけど、どうしましょう(@_@。慌てて出たものだから、スーツケースから出しっぱなしであった荷物をまとめていません。
ひとりで荷物を全て持ち、忘れ物をせずに来られるかしら?簡単に考えていた私の思慮の浅さ、詰めの甘さが出てしまった感じ。
それでも一緒だと足手まといになるだけ#59143; ハラハラしながら、その姿が見えるのを待ちました。
      
駐車場の真ん前には、「銅座跡」の碑が。
町の名前は江戸時代の享保10年(1725)、輸出用の棹銅を鋳造するために銅吹所が設けられ「銅座」と呼ばれた事に由来したそうです。
こういった状況では頼りになる夫さん、当然の事として嫌な顔ひとつせず普通にひとりで済ませるのは偉いなって感じるひと時でした。