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2023年〆の西九州旅・・・⑥外海の出津集落、ド・ロ神父記念館 [2023・12月~1月九州シュガーロードを行く]

もうひとつの遠藤周作関連のスポット。出津文化村にある「沈黙の碑」は残念ながら見逃してしまいました。
遠藤周作が好んでいた場所にあり。碑には「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」と書かれているのでした。映画「沈黙」のキャッチコピーにも使われていたかと!?
後になってみたら、「旧出津(しつ)救助院」へと上がる道の少し先にあった模様。

「遠藤周作文学館」から車を走らせると、遠くに白い「出津(しつ)教会堂」建物、斜面に連なる家並みと見えてきました。長崎市西出津町出津文化村エリア内の「ド・ロ神父記念館」及び、「旧出津救助院施設」が次の目的地です。

角力灘は暖流の対馬海流が流入し、天然岩礁が多く好漁場と認知されているそうです。主に鰯・鯵・鯖などが獲れ、巻き網漁業が盛んに行われている。…とあるが、この急勾配の地形を目にしていると、漁村であり漁業を生業としていても、かつて漁で生活する為には厳しい自然条件により困難を極めたのでは?と想像されました。
天草やここ外海は元々耕作地が少ない土地で、漁業・海外貿易・出稼ぎで生活していました。凶作が続き、重税も重なり、生活の苦しさから住人のキリスト教への信仰は、精神的な支え、心の拠りどころとなっていたのでしょう。禁教下においても、キリスト教信仰が組織的に継承されてきた外海の出津集落。

1879年(明治12)外海地方に赴任した、フランス人宣教師「ド・ロ神父」が困窮を極める村人達を救うため私財を投じて設立した明治初期の授産・福祉施設は、後に修道院へと発展しました。授産場、マカロニ工場、鰯網工場(現ド・ロ神父記念館)の建物が残り、国の重要文化財に指定されています。
駐車場に車を止めて記念館へ。長い時を刻んできた建物は風格ある姿を見せていた。地域の人たちが大切に守ってきた様子が伺えます。
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近くに村人の生活の為に生涯を捧げた「マルク・マリー・ド・ロ神父」、寄り添う子供との像が立っていました。
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記念館は明治18年(1885)に神父自ら鰯網工場として設計、施工したもので、その後保育所として使われていました。昭和42年(1967)に県指定文化財となり、翌年「ド・ロ神父記念館」として開館。
「ド・ロ神父記念館」は木骨煉瓦造の平屋建て、上屋に洋小屋組(キングポストトラス)の屋根を架けた、明治時代の洋風建造物としては特異な建物だと言います。
内部には宗教関係や医療、土木、建築など神父がこの地で行った様々な事業に関する品物が収められている様子。どのような展示なのか?顔をのぞかせてみましたら、受付の方が「にっこり」顔があってしまいましたけど、靴を脱いで上がらなくてはならな為「申し訳ないのですが、見学出来ないのです」と話しました。
それでも出津救助院のお話、ド・ロ神父様がいかにこの地で尽力されていたかを説明してくださいました。「地元の方ですか?」とお聞きしたら、「私は、五島列島の方です」、「スパゲッティが日本で生まれたのは、ここ長崎なんですよ」ご自身も「キリスト教信者」と仰っていました。
内部は木製板張りの、昔懐かしい木造校舎のような造りです。

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外海地区の中でやはり一番の見所は、ド・ロ神父が赴任して最初に建てた「出津教会堂」。このようにとても美しい教会ながら、数十mほどの坂を上がった先、ド・ロ神父が建てた教会も私の足では観る事が叶いませんでした。
そこで、お借りしてきた画像です。
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階段を使わずに行く道路があった模様ながら、初めての土地でそれもわからず・・・(._.)
第1・第3日曜日はミサの執り行いのために10時まで堂内見学は不可。見学希望の際は事前に連絡の必要あり。

100年以上経った今も健在する「ド・ロ塀」に囲まれた授産場 、マカロニ工場、旧製粉工場、旧出津救助院の施設たち。
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現在は、「旧出津救助院」の入館受付となっている「薬局」。
綿織物の製糸から製織、染色、そうめんやパンの製造、醤油等の醸造が行われてたそうで…。
授産施設の展示品には、救助院で使用したひきうす、カンコロ切り機、ド・ロ神父の記録簿。
出津教会で美しい音色を響かせていた、「ハルモニュウム」と呼ばれるミサ用高級オルガンは、今もなお大切に保存されています。
近代日本の文明開化が、このような寒村でもおこなわれていた…輝かしい業績[exclamation]が感じられました。
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そうめんなどの材料となる小麦の種子はフランスから取り寄せて栽培、水車小屋を使って製粉しました。落花生油をつかった独特の製法の為油となる落花生も地元の畑で栽培。「旧製粉工場」で作られたそうめんは、「ド・ロ様そうめん」の名で今も親しまれています。特産品は「道の駅夕陽が丘そとめ」にも並んでいました。
ここではどの建物にも、どこかしら「キリスト教」の「十字 cross」付きであったのが印象的です。


自然と共生し、人々が創りあげた石積み風景は、続く「大野集落」でも見られるそう、またドロ神父により大野集落の中心部には神浦・大野地区の信徒の為、神父が自費を投じ信徒の奉仕によって建てられた教会堂「大野教会堂」もある模様ながら、ここでも急勾配地の続く土地、曲がりくねった道の先、奥まった地に建てられた「大野教会」の建物は見えず。
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記事にしている今になってみたら、先を急がずに探してみたら良かったと思うけど・・・。森に囲まれていて近くに行かないと見つけるのは難しいとの事、仕方ありません。
禁教期の外海の大野集落において、潜伏キリシタンは表向きは仏教寺院に所属し、さらに集落内にある大野神社、門神社、辻神社の3つの神社の氏子となって信仰を守り続けました。

続く神浦地区は、外海地区で最初にキリスト教が栄えた場所、1570年代は教会堂も建っていたと伝えられていますが、清流・神浦川の河口に開けた古い港町の面影のみ。
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角力灘には小さな島がいくつも浮かんでいますが、目立つのが西彼杵半島の島々です。
奥の一番大きな島「池島」は、九州で最後まで残った炭鉱の島。42年間にわたる歴史に幕を下し閉山した炭鉱「池島炭鉱」の貯炭場、選炭工場、高台にある高層住宅群など、2001年閉山した産業施設の廃墟見学の出来る、体験型の観光地となっているとの事。
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角力灘(すもうなだ)の海洋と海崖の間に、バランスよく点在・・・立岩や小島が群れをなして庭園の石の如く、海上に姿を見せています。
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角力灘の水平線上に大角力、母子島、小角力…といずれも無人島の島。潮風を感じ、波の音を聞きながら、遥か遠く望む。
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神浦から、角力灘の眺望の美しい大瀬戸町へ。
西海市に入って間もなく、視界の広がった駐車場にも停車しました。雪浦周辺は、海と山、そして澄み切った青空とが織りなす、長閑な光景が広がっていました。
二日目のホテルへと続きます。
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