「松浦静山夜話語り」童門冬二著 [本]
今日は、江戸時代後期の大名、松浦静山について書かれた本の話題です。
作者がサラリーマンファンの多い童門冬二ときたら・・・よくあるハウツーっぽいものと思ってしまいがちではあるものの・・・
その当時の大名の暮らしも含めて、興味深く、面白く読めた一冊でした。
肥前国平戸藩の第9代藩主であった松浦静山は、46歳の若さでの隠居をする。
そしてその後のほとんどは江戸で過ごして、81歳でなくなります。
その間に、江戸の町で聞いた事や体験したこと、自らの考え等を「甲子夜話(かっしやわ)」と言う随筆集にまとめています。
彼は人一倍の好奇心をもち、どんな事でも知りたいとの心を、晩年になっても持ち続けた人。
悠々自適の生活を楽しむ老後を送る日々。風流を好み、心形刀流の達人でもある文武に秀でた人物であった人、静山の考えとは。
本作では、父親である勝小吉とその子勝麟太郎(後の海舟)との交流を中心にストーリーは進んでいきます。
平戸藩の歴史、各国との貿易の経緯、自分のやって来た政治の数々を静山は彼らに語っていく。
登場するのは田沼意次、松平定信、水野忠邦、歴代の徳川将軍・・・・・
日本にキリスト教を布教した事で知られるフランシスコ・ザビエル、家康から厚い信頼を受けた三浦按針(ウィリアム・アダムズ)など。
聡明である静山はこれまで行ってきた藩政の政策と実績を元に、幕府の老中に起用されることに望みを抱く。
しかし外様大名であったがゆえに当時それはあくまでも夢でしかない、様々な策を練る静山。
悪評高い人物・田沼意次や中野石翁など、松平定信、松平信明にも積極的に近づいて働きかけたのだが、それはついにかなわない事であった。
ここでも憎めない人物として捉えることが出来たのは・・・静山が幕府要人に賄賂・品々を贈るのは勿論下心を持っていたから。
しかしその相手がすでになくなってしまった後でさえ、どうしようもなく自己嫌悪に陥る箇所は笑ってしまうところであろう。
高い目標のためであればその為には手段を選ばずと言った江戸城内の人事、高い役職にいる人物達の生き様は解りやすく描かれています。
相手が子供であれ、泥棒であれ、これと思った相手の話には興味津々に話に聞き入る静山の姿がイメージされるのも、本作の魅力のひとつと思う。
それ程でもない私でさえ一気に読んでしまえたくらいなのですから、江戸中期以降の歴史に興味のある方にはお勧めの一冊です。
作者の、米沢15万石の再建を果たした興味深い人物を描いた「小説上杉鷹山」も、読んでみたくなりました。
「誰かーSomebody」 [本]
あるマンションの前で、自転車にはねられ頭を強く打って亡くなってしまう65才の運転手・梶田。彼には、二人の愛する娘とささやかな秘密がありました。
今多コンツェルングループの広報室に席を置く編集者・杉村は、この事故の犯人探しに結びつくと思われる梶田の生涯を綴った本の出版を頼まれます。
運転手だった梶田は、コンツェルン会長の週末だけの運転手もしていたから。
そして杉村はあるきっかけで会長の娘・菜穂子と結婚した娘婿で、それは残された姉妹を案じた義父からの依頼によるものだった。
会長に出版を頼む姉妹であったが・・・父の思い出を本に綴って犯人を見つけるきっかけにしたいと願う妹の梨子と、出版に反対する姉の聡美。
聡美は、これを単なる事故ではないのでは?との懸念をする。
その理由は、自分には幼い頃誘拐されて監禁されたという記憶がある為。
杉村は本の作成よりも先に、梶田の過去を調べることになります。
この探偵役は平凡なサラリーマンそのものなので・・・ミステリーとは言え、なんとも穏やかな感じでストーリィは進んでいきます。
事件と違い、ほんのチョッとした不注意が引き起こしてしまうのだから・・・事故は誰もが起こす可能性のあるもの。
被害者は不運としか言いようのないものだけれど、加害者とってもそれは変わりのないものであると思う。
事件そのものには一応決着が付くものの・・・その辺りは、サラッと書かれています。
その後、これがきっかけとなって表面化してしまった姉妹の確執の方が同性としてはやりきれない。
その原因が家族ゆえに、両親に与えられたそれぞれの立場を羨んでの事らしいので、余計にやりきれなさが残るのだ。
人が生きる上ではさまざまな誰かがいて、それは互いに影響しあうもの。
家族間にある秘密、姉妹の問題、簡単に断ち切れるものではないだけに難しいものです。
平凡で小心な主人公は常に自分の置かれた立場に戸惑いながら・・・妻と娘を愛する、ほのぼのとした幸せな生活を送っている姿に救いがあります。
経済的にも恵まれている杉村が、貧しかった時代を生きる梶田の過去を探るところもミソ、ここに作者の皮肉が込められていると感じました。
この作者にしてはそれ程の長編ではないのだけれど、各描写はこの作者らしくいつも通りに詳細です。
その辺りは相変わらずだなぁと思ってしまうところなのであるが、そこが好きな人は好き、でも馴染みのない方にとっては宮部作品て面倒くさ~いとなってしまうのでしょう。
ストーリーにも意外性はないが、小さな謎がどんどん大きくなっていく展開は見られます。
杉村家、梶田家の親子、家族、様々な姿で登場する人物達。
全てが順調なわけではなく何かしら問題を抱えていて、 その辺りの描写も相変わらず上手だと思う。
「誰か」というタイトルは、サブタイトルの通り「somebody」、不特定な誰かを指しているもの。
内に問題を抱え込み、それに対しての解決を先送りにするこの姉妹でもあると解釈する事も可能である。
と、ここまで読んでも、何が何だか理解に苦しむところだと思われるのですが・・・・
要はストーリーテラーである、この作者特有の語り口を充分に堪能したと言う事なのです。
あなたは、宮部作品はお好きですか。
宮部 みゆき (ミヤベ ミユキ)
1960年、東京生まれ。87年「我らが隣人の犯罪」でオール讀物推理小説新人賞を受賞してデビュー。「龍は眠る」で日本推理作家協会賞、「本所深川ふしぎ草紙」で吉川英治文学新人賞、「火車」で山本周五郎賞、「蒲生邸事件」で日本SF大賞、「理由」で直木賞、「模倣犯」で毎日出版文化賞特別賞、「名もなき毒」で吉川英治文学賞を受賞する。
近作には「R.P.G」「心とろかすような」「ブレイブ・ストーリー」等があります。
「玻璃の天」北村薫著 [本]
「玻璃の天(はりのてん)」は、作家の北村薫によって書かれた「幻の橋」「想夫恋」「玻璃の天」の三篇からなる推理小説です。
昭和初期の上流階級・花村家を舞台にして、主人公は花村家のお嬢様・女学生の花村英子です。
そこに彼女の専属運転手である、この時代には珍しい女性運転手の別宮(べっく)みつ子=愛称「ベッキーさん」が、非常に重要な役割を果たしている人物である事も。
「幻の橋」は、死亡を伝える新聞記事がきっかけとなって長年犬猿の中となる内堀家のお話です。
その孫どうしである百合江と東一郎が出会い互いに惹かれあって・・・・ふたりは、ロミオとジュリエット状態になる・・・
ロミオが持参した一枚の浮世絵より、内堀家における過去と現在がつながった。そしてここに、タイトルとなる事故の張本人でもある段倉も登場してきます。
次の「想夫恋」。
英子の学友で琴の名手である綾乃が失踪をする。彼女の残した暗号の記された手紙。英子はベッキーさんのアドバイスにしたがって、和歌につながる暗号を読み解く。
「玻璃の天」は、建築家の乾原が建てた末黒野邸で起きる事故のお話。
晩餐会の余興である映画の上映中に、末黒野邸のステンドグラスの天窓から思想家・段倉の死体が落ちてくる。
そこには作った建築家本人も登場して・・・・果たして、それは事故か、殺人か。
ここに描かれたストーリーにより、この時代が戦争へと突き進んで行く時代であった事がよくわかる三編です。
その象徴と言えるのが段倉のキャラクター。車中でのベッキーさんとのやり取りにも、この男の薄っぺらさが象徴されているように私には思えました。
三話を通じて最も興味深く、強い印象を残すのは運転手であるベッキーさんです。
作品の中に出てくる会話。
謎解きのヒント、博学で様々なことに通じる考え方など、知識の豊かさには驚かされるばかり。その上、当時としては長身で理知的な容姿をもつスーパーウーマンなのだから、同性としては喜ばしい事この上ない。
本作のラストに、この事件を通じてベッキーさんの過去が明らかになるのでした。
これでは誰もがもっと読みたいと思わされるもの・・・と思ったら、ちゃんと「ベッキーさんシリーズ」があるのですね。
一作目の「街の灯」、「玻璃の天」、「鷺と雪」と続いているのです。
この作品は「街の灯」の続編なので、そちらから先に読んだほうがもっと楽しめたような感じがしましたけれど・・・
今私の手元には、三作目となる「鷺と雪」が。これはゆっくりと楽しみながら読む事に致しましょう。
「玻璃の天」は直木賞候補作に。
その二年後に書かれた「鷺と雪」にて、作者は第141回直木賞を受賞しました。
その前年の直木賞候補作となった「ひとがた流し」についても、以前のブログで書いておりました。
簡単なものなのですけれど・・・アップさせて頂きます。
今週読んだ一冊はこれ「ひとがた流し」です。
「朝日新聞」に昨年8月から今年の3月まで連載されていた小説ですので、お読みになった方も多いのではないのでしょうか。
「ひとがた流し」は三つの家庭の物語であり、そしてまた、アナウンサー、作家、写真家の妻として、それぞれの40代を迎えた女性たちが、互いの人生を見つめる物語なのです。
アナウンサーをしている千波、一人娘のさきと暮らす作家の牧子、娘・玲が生まれてすぐ離婚し今は写真家の類の妻である美々。
都心から離れた埼玉でそれぞれに暮らしながらも、3人の友情は続いている。
離婚、子供の成長、親の介護と、時をかさねながら彼女たちは40代を迎えます。
ある年の4月から、朝のニュースのメインキャスターという抜擢をされる千波ですが。彼女は喜びもつかぬまで、自分の身体がもう治る見込みのない病に冒されていることを知るのです。
学生時代からの信頼しきった関係と、ともに過ごした時の重さがうまく描かれています。
しかし3人の日常生活を淡々と静かに描いていくはじめの3分の1位は、物語に流れがなくて読みにくさを私は感じてしまいました。
死が近いことを悟る千波は、突然とも言える後輩良秋のプロポーズを受け入れ結婚をします。
子供の頃、亡くなった母と共にひとがた流しを作ったことを思い出し、今の一歩をどう踏み出すか、今に集中する決心の上で。
どうにもならない障害があるため愛が一層輝く、そのあたりも上手く書かれています。
別れにむかい3人の思い、家族の絆が深まっていく課程は誰もが羨ましくなってしまうことでしょう。読後は、静かな余韻の残る物語でした。2006.12.13の日記より・・・・・
「地下鉄に乗って」浅田次郎著 [本]
この小説の主人公は、大企業の社長の座をけって、女性用下着売りの仕事をする中年男性の小沼真次。
彼がふらりと立ち寄ったのは25年ぶりのクラス会。
その日の彼の姿は当然ながら、クラスのだれもが予想していたものとは大きく異なっていた。会では、意味ありげな・・恩師との再会も。
その後、帰宅途中に真次が目にしたものは・・・・
地下鉄駅の階段を上がった先に広がっていた世界は、30年前の風景であった。家庭内でも自己中心的な父親の姿勢に反発する、兄の昭一が自殺した夜であった。
そしてまたも過去へとさかのぼった真次は、戦後の闇市で「アムール」と名のる男に出合うこととなる。
戦後一代にして大企業を興した父親、小沼佐吉。
この作品の軸となるのは、父と息子との間に残る確執です。
この小説の主人公ならずとも、思春期に自分の親に対して批判めいた感情を抱くことは誰にでもあると思う。
タイトルの「地下鉄に乗って」は、主人公がタイムスリップする過去への入り口として、現在への出口としての役割をもっています。
私の知る・・・ウン十年前の地下鉄のもっていた、あの独特のムード。
特に日本最古の地下鉄・銀座線などの薄暗いホーム、走行中に時々明かりの切れるボロい車両など、その当時ですら古色蒼然とした独特なムードがあったものでした。
夜間でも圧倒的な数の人々が行きかう東京の地下。いくつもの、またいく層にも複雑に入り組んだ地下鉄の路線。もしかしてその中に・・・・過去へとつながる出入り口があっったとしてもおかしくはないかもしれない・・・
仕事に疲れて、家族間の葛藤を抱えて、人生にくたびれた中年サラリーマンが体験するタイムスリップ。
真次は過去と現在を行き来することにより、憎んでいた父親の生き方を理解していく。
どうしようもなく嫌なやつと思っていた父親。しかし過去の父=アムールは悪いやつじゃなかった。その反対に面倒見の良い、気の良い男と言う事が徐々に解ってきて・・・・真次の父親への気持ちが変わってくるのだ。
それを淡々と、距離を置いた視線で作者は描いています。
良くも悪くも、この作者特有の情緒的な表現に、こちらもノスタルジーを感じつつ・・・・本を読み進めます。
小さな身体でもって働き続けた、佐吉の幼少時代。貧しく苦しい暮らしぶりと、憧れの対象であった地下鉄に対する思い。
彼は出征する時も、ひとりで地下鉄に乗って訓練先の軍隊へと旅立つのだった。
その後の闇市の時代にドル紙幣とカメラの取引で大成功をし、その時の儲け金を元手にして事業を成功させていく。
小説のラスト。
恋人・みち子は、父親と(真次も闇市で出会った)お時との間に生まれた子供であった事が明らかになる。
その結果、非情とも言える決断をし行動をするみち子。
切ない女心に痛みを覚えるものの、あまりにも唐突に思えてしまった為この部分に共感は出来なかった。
これまで読んだ浅田作品に言えることながら、今回もとても読みやすい本でした。自分自身が地下鉄に乗って運ばれるかのように、あっという間に読み終えてしまいました。
これまで地下鉄は外の景色見られないからつまらないと思っていましたけれど、この本を読んだ後に乗ると異空間を感じられるかもしれませんね。
堤真一、大沢たかお、岡本綾、常盤貴子出演で、映画化もされています。
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「ごはんのことばかり100話とちょっと」よしもとばなな著 [本]
ドライブ日記が続いてしまいましたが・・・今日は、その間に読んだ本の事を書きます。
と言っても、ホントほとんどが短くて、読みやすいものばかりです。
まずは松本清張の短編集。
本に書かれていた内容は、何時も通りのディープな世界。それにしてもこの作者、どうしてこんなにも人の心理に対して優れた洞察力があるのでしょう。
今年のヒーロー・坂本龍馬と同郷の、高知県出身の作家・坂東眞砂子のこちらも短編集でした。
江戸末期から明治の、貧しくも逞しい庶民の暮らし。生と性をがあからさまに明るくあっけらかんと描かれた内容の本でした。
そして今日紹介するのは、よしもとばななのエッセイ。タイトルで解るように・・・食べることのお話ばかり。
近頃の私は気力も気合も不足しているのか、短いもの、軽いものしか手にしなくなっています。
でもこの作者のエッセイは、書かれている内容がきちんとしている。これまで読んだものに限っても私のツボをおさえていると感じるものばかり。
これまでも、彼女の小説には食事をするシーンが多いように思っていました。
また以前読んだエッセイでも、「食」を大切にしていることが伝わってきていました。
本作では思いついたことをサラサラっと書いているだけ、特にこうでなければとか、食事やお料理のあり方について声高に主張をしている訳でもありません。その時に感じたまま、思ったままを書いたとのことです。
そんな中にでも、現代の食生活の流れに逆らうかのような彼女の確かな自己が見受けられたと感じます。
書かれている・・・よしもと家の日々のご飯や、行きつけのお店で出される食事の数々。
これまでも思っていたことだけど、彼女は良いご家庭で(身体の弱かったお母さん、それをフォローするのは高名な作家のお父さん=吉本憶隆明)大切に育てられたお嬢さんなんだなぁという事を痛感させられた内容でした。
色々な場所で、色々な人たちと共に共有したそのひと時が、後になるとかけがえのない思い出となってくるって言うのも解るなぁ。
家族って???と考えさせられてしまうことも、いばしばでした。
食事の時間はご飯を食べるだけじゃない、そこには、それに付随するものも一緒であること・・・
特に人にとって、子供時代の食べると言う行為。たかが子供だし、子供だから何も解らない訳ではないのです。
作者がチビと呼んでいる、お子さんの2歳~6歳までの子育ての間。
食事をすること、食べものを大切に味わうのは・・・人が生きていく上で、そういう記憶って意外と大切なんだと作者が思っているから。
本の帯に「ふつうの家庭料理がやっぱりいちばんおいしい!」となっていますが・・・
私自身、もう30年も専業主婦でありながら、毎日お家のご飯をちゃんと美味しく作るのは実に大変なことだと思います。
滅多にないことだけど・・・初対面の人と食事をする時って緊張をしてしまいます。そこには、その人の生活や性格、考え方までもが現れてしまうことだから。
まして、その食事が自分が作ったものであったなら余計にです。
毎日一緒の家族の場合その緊張感がなくなっているのが、その原因のひとつになってしまっていると思います。
ここに登場するごはんは、国内の東京なみならず、イタリア、ハワイ、ヴェトナム、ネパール、台湾、沖縄、青森などなど・・・そして交流のある人たち、村上龍、田口ランディ、先日紹介した「シネマ食堂の」飯島奈美らとのエピソードも書かれています。
普段のごはんを食べるのと同じ、さっと読めてしまう本です。
「月下の恋人」浅田次郎著 [本]
今月に入ってからは、この連日の寒さもあり・・・特に何をするということもない毎日を送っています
それでも、本だけは読んでおりました。
今井敏のハードボイルド、岩井志麻子のもの二冊、それに浅田次郎作品です。
今日は、その浅田次郎の「月下の恋人」のお話です。
この小説、初めは長編と思い手にしたものの・・・中に書かれていたのは男女の恋愛を描いたものから、世の中の不条理を扱ったもの、都会的なムードの短編まで、バラエティに富んだ10編ばかりの短編集でした。
描かれていた内容は・・・・読み終わってからも、もう一度読み返してしまうような不思議な物語が多かったように感じました。
タイトルとなる「月下の恋人」は、
私は付き合っていた恋人に別れを切り出そうとして、最後の夜に彼女とドライブをする。そして訪れた海辺の旅館。
ふたりは一時死を覚悟するものの、向かった海の先でもう一組の恋人達を目撃する。
宿の駐車場にあった同じ形の車は?
波間に見えたふたつの頭は、誰のものだったのか?
しかし結局、その後すぐに彼らは別れてしまうのですけれど。。。
「あなたに会いたい」
少年期に故郷を捨てその後成功した男が、あるきっかけで数十年ぶりに故郷を訪れる。
レンタカーのナビに導かれて行った先は、もうすっかり忘れていた思い出の場所であった。
遠い昔の記憶・・・すてるようにして別れた昔の女性、その人との思い出の場所へ気がつくとたどり着いていたお話。
「冬の旅」
川端康成の「雪国」を読んで、学校で習う「コッキョウ」の読み方に疑問を持つ。
そこで小説に書かれた「国境」を、越えてみようと一人旅立つのだ。
夜汽車の中で出会った一組の男女は若き日の両親なのか?どうしても二人の後を追わずにいられない私。
どのお話も、ストーリーとしてはおちがない。そして読後に不思議なものが残るお話ばかり。どの話も、少々幻想的です・・・
ここには真面目に生きるごく普通の人々、しかし不器用な人たちばかりが登場します。
描かれるのは浅田ワールドだから・・・ストーリーが上手すぎる。読んでいると、作者の思う壺にはまっていってしまいそうに・・・これって、素直じゃありませんね。私には最後までよくわからないお話もいくつかありましたし・・・・
友情と、男女の愛情、親と子の愛情という違う形の愛情がある日つながった、義理の父と娘の物語「告白」が一番無理がなく、良かったように思います
タグ:浅田次郎 月下の恋人
「ダナエ」藤原伊織著 [本]
表題作の「ダナエ」は美術界を舞台にした物語です。
始めに・・・ダナエとは、ギリシア神話に登場するアルゴスの王女の名前。
アルゴスの王・アクリシスには、一人娘ダナエがいた。
王は、男性がダナエに近づくことのないように青銅の扉のついた塔に閉じ込めた。しかしダナエは美しかったので、ゼウスの目にとまってしまったのである。
ある夜ゼウスは、黄金の雨の雫に姿を変えて塔に入り込みダナエと交わってしまいます。
結果、ダナエに男の子が誕生する。ペルセウスである。
生まれた男の子・ペルセウスに、アクリシオス王は殺される。それは予言された通りの事であった。
この逸話は芸術家の想像力を刺激するのか、ダナエをモチーフとしてクリムトにも描いた作品がありますけれど。
この小説中に登場するのは、レンブラントが描いたダナエ。
ロシアのサンクト・ペテルブルクにあるエルミタージュ美術館。所蔵の名画「ダナエ」が、キャンバスをナイフで引き裂かれ、硫酸をかけられた。
精神状態がおかしいリトアニア人の犯行ということで、裁判では責任能力なしとされ、無罪となりました。
さて、この小説中・・・
画家の宇佐美は、銀座の画廊で開かれる個展に、義父=古川財閥のボスである古川宗三郎をモデルにした肖像画を出品します。
中でも貴重と言われるこの作品が、会場内で何者かに硫酸をかけられナイフで切り裂かれてしまいます。レンブラントの「ダナエ」と同じように・・・
しかしその事実を知った宇佐美がとった行動は、意外に冷静で、淡々としたものであった。
その犯人とは、かつては貧乏画家であった宇佐美と別れた女性・秋本早苗と宇佐美との間に誕生した娘の神奈。
そして破損した作品の代替に静物画が展示さる。
この静物画は、描いた宇佐美自身が絶対手放さないと決めている大切な作品である。
アコーディオンと石油ランプが描いてある静物画で、別れた秋本早苗がこのアコーディオンを弾きながらサマータイムを歌っていた。それを描いた、彼女との思い出の作品であるのだから。
ギリシャ神話「ダナエ」と、レンブラントの絵「ダナエ」から着想を得たと思われるこの作品・・・・・
事件の真相が解明されてくる内に、突然目の前に現れた誕生も知らないままでいた自分の娘。そんな我が子への複雑な心情。
別れた女性・秋本、離婚寸前の現在の妻、共に男女間の理屈にならないどうしようもないやるせなさを感じさせる内容となっている。不思議な魅力をもつ小説でした。
題材の面白さと、興味深い展開により、ラストまで一気に読んでしまいました。
出来たらもっと読みたい、長編として書き込んで欲しかったと思ってしまいます。
他二篇、「まぼろしの虹」と「水母(くらげ)」も、人生に悲哀を持った青年、中年男性が主人公です。それぞれの心が再生するところは・・・読み応えがありました。
作者の「テロリストのパラソル」「てのひらの闇 」「シリウスの道 」は、私がこれまで読んだものです。
その読書日記は、こちらへ→
この作品は、2007年5月に食道ガンで他界された著者最後の作品とされて、 亡くなった2007年1月に出版されました。
「シネマ食堂」飯島奈美著 [本]
「シネマ食堂」は、テレビCMや映画で設定に合わせて料理とセッティングを担当する「フードスタイリスト」を肩書きにもつ、飯島奈美さんの本です。
彼女の映画デビュー作は、荻上直子監督作品である「かもめ食堂」です。
「かもめ食堂」も、かなり以前からこの本と同じように気になって仕方がなかった映画でした。
映画を観た感想については・・・以前の日記にアップしています。こちらへ→。
白木のテーブルの上にのっているのは、フィンランド・iittalaプレートのシナモンロール、多色使いの縞々が可愛らしい同じくiittalaのスナックボウルがシュガーボウルに、そしておまじないの言葉「コピ・ルアック」を使い入れたコーヒー。このカップ&ソーサーも、そうなのでしょう。
これが本の表紙です。
そこにオレンジ色の帯、かもめ食堂で主演した小林聡美の「ナミちゃんの作るゴハンは、もはや消えものではない」とのフレーズが書かれています。
映画の中で使用されていたフィンランドのシンプルでデザイン性に優れた家具や食器類は、どれも素敵そのものでした
作るお料理もそれに合っていてシンプルだけれど・・・どれもが、食べたくなってしまうものばかり。
中でも私が一番惹かれたのはこのシナモンロール
焼きたてホカホカをドングで大きなボールによそうところでは、思わず「食べた~~い」となったものです。
同じく「かもめ食堂」でサチエが握るおにぎり、これもまた見ていると食べたくなるもののひとつなのですけれど。
このおにぎりがのるのも見た目は和柄ながら・・・フィンランドの高級食器、アラビア社のお皿なのです。
映画の途中から、マサコ=もたいまさこさんがメジャーブランド・マリメッコの洋服を着ているところは、なんか可笑しかったですね。
毎日同じことの繰り返しだけど・・・そんな日常を少し振り返って、ほんのチョッとでもこうしようかなって思うヒントをもらった映画です
近頃は特に欲しい洋服もアクセサリーもバッグもないから、せめて一日に何度か立つキッチンはセンスを良くして、清潔にキチンとするのがとても豊かなことのように思えてなりません。
「ショコラ」の中の生チョコ、フランス映画の大ヒット作「アメリ」ですっかりお馴染み「クリームブリュレ」、「ブリジットジョーンズの日記」の「ワカモーレ」「初恋のきた道」の「きのこ餃子」・・・・
こんなお料理も出てきたんだと思い出されるものが、他にもいっぱい載っています。
近頃公開の映画「南極料理人」の中の「鶏の唐揚げ」、「食堂かたつむり」の中の「スープ」も
食堂かたつむりも、時々思い出してはひろげてみたくなってしまう好きな本の一冊です。
読んだ感想は、こちら→。
映画にまつわるお料理の数々が飯島奈美さんのレシピでよみがえる読んで楽しい、持っていても楽しい本。写真集って感じかしら。
全く中身の確認はせずにAmazonで購入。ハヤッ! 翌日には届いてしまった。
届いてみて、パラパラッとページをめくってすぐに気に入りました。
どの写真も綺麗で可愛い自分でも作りたいと感じたものもいくつか、レシピを参考に作ってみましょう。
私のように・・・映画「かもめ食堂」のムードにはまった方には特に薦めです。
この本に描かれているのは、見た目だけでない、美味しい食事と演出。
家の中や、テーブルを彩るさりげないけど気の利いたオシャレって・・・ほかの事にも言えることですけれど・・・
ウ~~ン!いくつになっても、永遠のテーマだなぁって思ってしまいますね
「八日目の蝉」角田光代著 [本]
私・希和子は、不倫した男の家に忍びこんで生まれて6ヶ月の赤ちゃんを連れ去ってきてしまう。
最初はただ、その夫婦の赤ちゃんを一目見ようと思っただけ・・・ひと目見て、それで終わりにするつもりでいたのに・・・・
しかしその時赤ちゃんを自分の胸に抱いたことで、思わずその子を抱えて逃げてしまいます。
自分が産むはずだった子供の名前・・・「薫」と名付けて、彼女はその子と逃げ続ける。
彼女は、もう私は一人じゃない、薫と一緒ならどこまでも行けると思う。。。
ふたりは本当の親子ではない、誘拐は勿論怖い犯罪である。
希和子だってそれは解っている、そう理解をしていても子供を手放せない。そして、平気な顔で暮らしていけるほど悪人でもない。でもどうしても彼女は、赤ちゃんを手に入れなくてはいられなかった。
ストリーの最初を読むと恐ろしい誘拐犯のお話と思ってしまうが・・・希和子の深い孤独と、傷ついた思いが痛いほどに思えて共感してしまうのだ。
もう自分では子供が産めないものと思いこんでいる希和子。
連れ去った子供とふたりで生きていこうとするが、それは世間から逃れてひっそりと隠れ続ける逃亡生活の始まりであった。
その日々の中に、本当の親でもここまで?と思うほど深い愛情を薫に注いで育てている様子が見られる。
想像されるような悲惨さはなくて、幸せそうな親子の姿が描かれている。だから思わず、私まで「逃げて~逃げて~」と言いたくなってしまう。これでいいと思ってしまうのだ。
これは作者の戦術と思うが、私は犯罪を犯した希和子を非難する気持にはなれなかった。
彼女の逃避行は続く。
どうにか生活のめどがついても、すぐに追っ手から逃れるためにはその場を去らないといけない。
その度に、まだ薫に見せていない・・・・普通の生活や景色を思う・・・希和子。
始まりの特殊な関係も読み進めていくうちに違和感がなくなって、母と子の物語に思えてきてしまうのである。
友人の所~謎の老女の家~宗教団体「エンジェルホーム」~友人の実家などを渡り歩いた末に、希和子は逮捕される。
そして、まだ幼い薫は両親と妹の元に帰る。
駆け込み寺のようになっている宗教団体は、私財をすべて差し出す親子の別生活など・・一時世間をにぎわした「ヤマギシ会」が想像される。またはオームか。
そこが女性ばかりの特殊な場所だったというところでも、その小説のテーマが象徴されているように感じました。
物語の後半三分の一程は、大学生になった恵理菜=薫の視線で描かれています。
幼児誘拐の被害者として育ったからか、その後を本当の両親、しかし家族の心がバラバラの家庭で育ったからか、彼女はゆがんだ性格に育ってしまっている。ここでも事の重大さが感じられた。
皮肉にも恵理菜は、自分の父親と同じような、妻子ある男=岸田と恋愛をして妊娠してしまいます。
恵理菜は、自分を誘拐した悪い人=希和子と同じような道を歩むのであった。
身勝手で無責任などうしようもない男達、それと対照的に彼女達は現実を受け入れて必死に生きようとする。
女性達は強い存在として描かれているのだ。それは、悲しいくらいに・・・
それでも「産む」決意をかためた恵理菜は、それまで避けてきた「事件」の現場=自分の過去を訪ねる旅に出る。
そしてそれまでは自分には遠い存在であった希和子が、逮捕の瞬間に発した自分を気遣った言葉「その子は朝ごはんをまだ食べていないの」を思い出します。
全くの他人であってずっと悪い人と憎み続けてきた彼女が、薫に深い愛情を注いでくれていたこと。彼女の思いが自分の命の中に流れているのを実感する。
最後のシーン、希和子と恵理菜のすれ違いは途中から予想は出来ていたものの・・・心に迫りくるものがあって、最後の部分だけでも何度も何度も読み返したくなってしまう。
静かで・・・でも眩しくて、圧倒される。恵理菜が前向に生きようとする気持ちになれて本当に良かったと思えるのです。
蝉は7年間を土の中で生活して、地上に出ると7日ほどで死んでしまうという。短かすぎてあまりにもかわいそうだと、子供の頃の恵理菜は思う。
「八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でもぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりではない」。
それは、ここに登場する女性達のことなのか。
作中のところどころに、こんな切ない台詞の数々が散りばめられています。
ここに描かれているのは、「憎しみ」と「愛」。
複雑に絡み合うこのふたつは物事の表と裏、一体であって似ているものなのでしょう。
この本は是非女性に読んでもらいたいと思う。そして、感想が聞きたい。
赤ちゃんのぷっくりとした柔らかな頬やお手々、抱っこした時のあの独特の甘酸っぱいような匂い・・・私はそれをすでに忘れてしまっていますけれど・・・
この本は、あるおじ様から送られた荷物に同包されていたもの。
その人がこの本を読んでどう思ったのか。そして、どうして私に送ってくださったのかを聞いてみたい気がしました。
タグ:八日目の蝉 角田光代
「旅する力 深夜特急ノート」沢木耕太郎著 [本]
今日は、「旅する力 深夜特急ノート」について。
若者達から熱狂的な支持をされたノンフィクション「深夜特急」は、作家の沢木耕太郎によって書かれたものです。
乗り合いバスだけでデリーからロンドまで向かうことを目的にした旅行体験と、それぞれの国での出会いと別れが描かれ・・・・・1986年に第1便と第2便が、1992年10月には第3便が刊行されました。
シリーズを初めて手に取り読み初めてからは、すっかりその世界にはまってしまった私。
なかなか出ないでいたシリーズの第3便は「その続きを読みたいばかりに」、いまかいまかとその日を待ち望んでいたっけ。
第2便から六年の時を経ての「深夜特急第三便 飛光よ、飛光よ」の出版は、とても待ち遠しいものであったと記憶しています。
沢木作品を読んだのは、プロボクサーのカシアス内藤が再び世界チャンピオンに挑戦する姿を書いた「一瞬の夏」が最初でした。
これは、その当時所属していた読書のサークルの方に勧められたものです。読書と言っても、子供向けの読み聞かせの会ですから。
「ボクサーを描いたものなんて、私にはあいそうもないなぁ~」と思いながら読み始めたら、それは予想をこえて面白いものでした。
その後は、「人の砂漠」「テロルの決算」「地の漂流者たち」「敗れざる者たち」「馬車は走る」等、1970年代から1980年代までのほぼ全ての著作を読んでしまったかと思います。
最近はルポルタージュと言う言葉をあまり使わない気がするのですけれど、確か彼がこの言葉を初めに使ったのではなかったのかしら・・・
深夜特急は・・・あの当時の若者達、すでにもう若いとは言えないけれど好奇心だけは人一倍強かった私も含めて・・・皆が憧れ夢見たひとつの旅のスタイル。
まだバックパッカーと言う言葉さえもない頃に、言葉も習慣も違う遠い国々を、自らの力だけを頼りに一人で旅をするというもの。海外は今と違って20~30年前までは本当に遠いところだったのです。
作家・沢木耕太郎がインドのデリーからイギリスのロンドンまでを乗り合いバスに乗ってひとり旅することを思いたってそれを実行した。旅の始まりは今から40年近くも前、1970年代初めの香港からでした。
「深夜特急第一便 黄金宮殿」、同じく「第二便 ペルシャの風」。
そのどちらも、まだ見ぬ国々に吹く風を、漂う空気を、出会いを読者へと届けてくれた。読み進める私を、想像の旅へと誘ってくれたものでした。
また、いつもの日常に戻らなくてはならないとする・・・旅の終わりに感じる、あの独特の感傷的な気分も共に。
本書は、その「深夜特急」の旅の「最終便」なのです。
今回の装丁も前三作と同じく、フランスのデザイナー・カッサンドルのポスターを大胆にあしらったスタイリッシュなスタイル。
その中身は作家・沢木耕太郎の誕生まで、どのような訳で深夜特急の旅に出たのか、旅する過程でのエピソードの数々などが書かれています。
本書は「深夜特急」の前後、当時の彼の状況も描かれた、沢木ファン必読の書といえよう。
しかし、今回も発売直後に買って読み始めてはいたものの・・・期待の大きさに反して、読んでいる途中でさめてしまったのはなぜなのだろうか。
私はもっと違うものを求めて、この本を手にしたような気がする。
まだ私の知らない未知な国や土地はいくらでもあり、作者の言う「いくつもの旅」があるはずなのに・・・・
未知のエピソードの幾つかは楽しめたけれど、過去の三冊の本で作者と共に旅をしてしまったから、今この時期にあえて振り返る必要はなかったようにも思えました。
ここに書かれている旅をする力や情熱は、すでに失ってしまった「若さ」にある事が改めて認識されたためであったかもしれない。
作者はその後「凍」、ベルリンオリンピックを描いた「オリンピア ナチスの森で」、作家の檀一雄について、妻が回顧する形の「檀」など、小説家としても活躍の場を広げています。
本書内でも少々触れられていますが、「深夜特急」は沢木耕太郎=大沢たかお主演で、ドキュメンタリーとドラマとを組み合わせた形でテレビ朝日で放映されました。
あれは私のイメージを壊す事のない良いキャスティング、懐かしさを覚える内容でした。
松本清張短編全集 共犯者 [本]
今年は誰もが知る日本の作家ふたりの、生誕100年の年です。
ひとりは太宰治、もうひとりは松本清張。
太宰と言えば戦後まもなく、まだ私の生まれる前に玉川上水において入水自殺をしてしまった為、若い印象の写真が残るのみ。
対する日本の推理小説作家の代表とされる松本清張。あの独特の風貌と、1992年に亡くなるまで作家活動を続けた、それぞれの生き方も書かれた作品も全く異なったタイプの人です。
この見た目も、作風も全く正反対のおふたりが同じ年と言う事は、私にはとても意外なことでした。
太宰は県下有数の大地主であり、貴族院議員をつとめた地元の名士であったに父親・家に生まれるものの、東大在学中から自殺未遂を繰り返し、次々と発表する作品がいずれも憧れの芥川賞受賞とならなかったのは有名なエピソード。
今年は、浅野忠信主演で小説「ヴィヨンの妻」が映画化されています。
あらゆる職業を転々とした父の元、下関の貧しい生活の中で育った松本清張。
その九州小倉を舞台に書かれた「或る『小倉日記』伝」にて芥川賞受賞後も、生活のために勤務先の朝日新聞社を辞める事のなかった、彼は努力の人だったようです。
今回の本は、「松本清張短編全集」の掉尾を飾る本編。
前回は処女作「西郷札」でしたから・・・・って、他に読みたい本がなかったからからなのです。
タイトルの「共犯者」は、食器具の販売員として全国のデパートや問屋を回っていた男のお話。
夜は宿賃を節約して出切るだけ安い旅館に泊まる、全国を旅してもろくろく外の景色も見ないような日々で・・・そこが温泉などの遊び場であったらさらに憂鬱な気分になってしまう。
楽しげな他所の人々の姿を遠くに眺めながら、自らの惨めさを味わい、同じ旅人でありながらの違いを比較することとなってしまうのだから。
その後彼は商売で成功をするのであったが、その資金は銀行の金を奪いそこに住まっていた支店長に重傷を負わせることでえたものであった。
自分の商売が繁盛して資金も出来、地元での地位も安定してきた頃から、共に銀行を襲った共犯者の存在が気になって仕方がなくなってしまう。
自らの中の妄想が自分自身を追い詰めてしまう、人間の持つ心理がよく描かれている短編でした。
この小説の初めの部分に当たるところは、私の経験に近いと・・・・作者があとがきに書いています。
私は終戦後の一時期、行商の真似をしたことがある。
貧富の差を目の前にはっきりと見ることにより、絶望感は人生への呪詛となると。
太宰作品と時を同じくして映画化された「ゼロの焦点」(まだ未見に関わらず・・・)にしてもそうですけれど・・・社会の不条理を痛感しながら生きた作者の、底辺で生きる人々や社会の弱者への眼差しが貫かれているのではと思ってしまいます。
ビートたけし主演の先日のテレビドラマ「点と線」、これって再放送だったのですね。
時刻表を上手く使ったアリバイ工作で殺人を心中に見せた犯人に対し、地をはう様な地道な聞き込みや捜査で彼を追い詰めていく刑事の方に、単純な私などは特に共感してしまうのです。
大ベストセラーとなった原作を映画化した「砂の器」も、日本映画史に残る傑作とされています。
以上、多くの作品が昭和三十年代に書かれました。
そこで私達はその中に、謎解きだけでなく、登場人物たちの(多くは貧しい境遇にいる)、どうにもならない事件の動機、背景となる当時の描写を読み取る事が出来るかと思われます。
戦争により全てをなくしたがそれでも人々は必死で生きた戦後、荒廃した日本とその後の復興、高度成長期へと、そこには時代の転換期がありました。
その時代を生きた日本人達の夢や憧れ、不安、悲しみ等々・・・・
現在の一見同じように見える、私達の間にも少しずつ見え始めてきた社会の壁。
格差社会の到来をむかえていると言われています。
そんな不安な時代であるからこそ、清張作品もまたクローズアップされているのでしょうか。
ひとりは太宰治、もうひとりは松本清張。
太宰と言えば戦後まもなく、まだ私の生まれる前に玉川上水において入水自殺をしてしまった為、若い印象の写真が残るのみ。
対する日本の推理小説作家の代表とされる松本清張。あの独特の風貌と、1992年に亡くなるまで作家活動を続けた、それぞれの生き方も書かれた作品も全く異なったタイプの人です。
この見た目も、作風も全く正反対のおふたりが同じ年と言う事は、私にはとても意外なことでした。
太宰は県下有数の大地主であり、貴族院議員をつとめた地元の名士であったに父親・家に生まれるものの、東大在学中から自殺未遂を繰り返し、次々と発表する作品がいずれも憧れの芥川賞受賞とならなかったのは有名なエピソード。
今年は、浅野忠信主演で小説「ヴィヨンの妻」が映画化されています。
あらゆる職業を転々とした父の元、下関の貧しい生活の中で育った松本清張。
その九州小倉を舞台に書かれた「或る『小倉日記』伝」にて芥川賞受賞後も、生活のために勤務先の朝日新聞社を辞める事のなかった、彼は努力の人だったようです。
今回の本は、「松本清張短編全集」の掉尾を飾る本編。
前回は処女作「西郷札」でしたから・・・・って、他に読みたい本がなかったからからなのです。
タイトルの「共犯者」は、食器具の販売員として全国のデパートや問屋を回っていた男のお話。
夜は宿賃を節約して出切るだけ安い旅館に泊まる、全国を旅してもろくろく外の景色も見ないような日々で・・・そこが温泉などの遊び場であったらさらに憂鬱な気分になってしまう。
楽しげな他所の人々の姿を遠くに眺めながら、自らの惨めさを味わい、同じ旅人でありながらの違いを比較することとなってしまうのだから。
その後彼は商売で成功をするのであったが、その資金は銀行の金を奪いそこに住まっていた支店長に重傷を負わせることでえたものであった。
自分の商売が繁盛して資金も出来、地元での地位も安定してきた頃から、共に銀行を襲った共犯者の存在が気になって仕方がなくなってしまう。
自らの中の妄想が自分自身を追い詰めてしまう、人間の持つ心理がよく描かれている短編でした。
この小説の初めの部分に当たるところは、私の経験に近いと・・・・作者があとがきに書いています。
私は終戦後の一時期、行商の真似をしたことがある。
貧富の差を目の前にはっきりと見ることにより、絶望感は人生への呪詛となると。
太宰作品と時を同じくして映画化された「ゼロの焦点」(まだ未見に関わらず・・・)にしてもそうですけれど・・・社会の不条理を痛感しながら生きた作者の、底辺で生きる人々や社会の弱者への眼差しが貫かれているのではと思ってしまいます。
ビートたけし主演の先日のテレビドラマ「点と線」、これって再放送だったのですね。
時刻表を上手く使ったアリバイ工作で殺人を心中に見せた犯人に対し、地をはう様な地道な聞き込みや捜査で彼を追い詰めていく刑事の方に、単純な私などは特に共感してしまうのです。
大ベストセラーとなった原作を映画化した「砂の器」も、日本映画史に残る傑作とされています。
以上、多くの作品が昭和三十年代に書かれました。
そこで私達はその中に、謎解きだけでなく、登場人物たちの(多くは貧しい境遇にいる)、どうにもならない事件の動機、背景となる当時の描写を読み取る事が出来るかと思われます。
戦争により全てをなくしたがそれでも人々は必死で生きた戦後、荒廃した日本とその後の復興、高度成長期へと、そこには時代の転換期がありました。
その時代を生きた日本人達の夢や憧れ、不安、悲しみ等々・・・・
現在の一見同じように見える、私達の間にも少しずつ見え始めてきた社会の壁。
格差社会の到来をむかえていると言われています。
そんな不安な時代であるからこそ、清張作品もまたクローズアップされているのでしょうか。
「冬の陽炎」梁石日著 [本]
作者の、梁石日(ヤン・ソギル)は1936年に在日朝鮮人として大阪で生まれました。
事業の失敗や放浪生活を経て、タクシードライバーに。その経験を基に書き上げたのが「タクシー狂躁曲」。
この小説は、崔洋一監督により「月はどっちに出ている」として映画化されました。
98年、「血と骨」で第11回山本周五郎賞を受賞。
「血と骨」も同じく崔監督によって、強烈な個性を持つ父親役を北野武が演じて映画化されています。
借金から逃れるため東京に来たタクシードライバーの姜英吉は、ある日不審な車を見つける。その日を境に、彼の日常は徐々に変化していくのだ・・・・
東京での毎日も返すあてもない借金を続けていく日々。そんなある日、タクシー内の忘れ物で見つけた鞄には大金と、宝石、麻薬。
そして、彼に絡んでくるのは一癖もふた癖もある女性達。
大量のダイアモンドを売りさばく為には香港へと、ストーリーの最後は広がっていくのです。
しかしそのようなお話のすじよりも、私が面白かったのは姜の日々の部分・タクシードライバーの日常生活の描写のリアリティさの方でした。
それと疑問に思ったのは、さえない中年のタクシードライバーが姉妹で取り合うほどどうしてこんなにもてるのかと言う事。
主人公の容姿に対して特筆するような事も書かれていませんでしたから、お金もないその日暮しの男が特別な理由もなしにこんな良い思いをするのかが不思議でした。
タクシーという密室から起こる悲劇?と、ドライバーの日常を描いた部分は、さすがに上手いと思います。
人間の持つ限りない欲望が描かれた、一冊でした。
次に今読んでいるのが同じ作者の、タイの裏社会で横行する人身売買をテーマにした「闇の子供たち」。
これを原作として江口洋介、宮崎あおい主演で、阪本順治監督により映画化されています。
中古のテレビや冷蔵庫を買っただけくらいのほんのわずかのお金の為、親孝行の名前のもとに10歳にも満たない子供達が簡単に売られていく。
その先は暴力と恐怖に支配される夜の世界。子供達は毎晩、大人達のおもちゃになってしまうというもの。こちらは更に、重い内容となっています。
かつて自分の訪れたあの大好きな国が、フィクションとは言えまさかこれほどまでに深刻な問題を抱えているなんて。
最初は2000年に母と格安ツアーで、次はその4年後にお友達に誘われて(この時は豪華ホテルに、エステやマッサージ、ショッピングとマダ~ムな旅でした)と、二度ほど遊びに行きました。
わずか数年に関わらず町や車がすっかり綺麗になってしまっていたから、その経済発展の早さには驚かされましたけれど・・・・
確かにその時に私達を見るときの、タイの人々の何とも言えない無気力な、空虚な眼差しには思わずたじろいてしまったことが思い出されます。
仲良しになったガイドさんが「一度、日本に行きたい」って言った時に、一緒の友達は「日本に来たら、私の家に泊まって」と返事をしていましたが、「彼女のお給料で日本まで来る事って、夢で終わってしまうのでは」と私は思ってしまって、次の言葉が出ませんでした。
こちらもまだ途中ながら・・・富むものと富まざるものとの対比、お金に対する大人たちの欲望の深さが書かれているかと思います。
こんなディープなお話ばかりを続けて読む私、私の心もかなり病んでいるということかな
事業の失敗や放浪生活を経て、タクシードライバーに。その経験を基に書き上げたのが「タクシー狂躁曲」。
この小説は、崔洋一監督により「月はどっちに出ている」として映画化されました。
98年、「血と骨」で第11回山本周五郎賞を受賞。
「血と骨」も同じく崔監督によって、強烈な個性を持つ父親役を北野武が演じて映画化されています。
借金から逃れるため東京に来たタクシードライバーの姜英吉は、ある日不審な車を見つける。その日を境に、彼の日常は徐々に変化していくのだ・・・・
東京での毎日も返すあてもない借金を続けていく日々。そんなある日、タクシー内の忘れ物で見つけた鞄には大金と、宝石、麻薬。
そして、彼に絡んでくるのは一癖もふた癖もある女性達。
大量のダイアモンドを売りさばく為には香港へと、ストーリーの最後は広がっていくのです。
しかしそのようなお話のすじよりも、私が面白かったのは姜の日々の部分・タクシードライバーの日常生活の描写のリアリティさの方でした。
それと疑問に思ったのは、さえない中年のタクシードライバーが姉妹で取り合うほどどうしてこんなにもてるのかと言う事。
主人公の容姿に対して特筆するような事も書かれていませんでしたから、お金もないその日暮しの男が特別な理由もなしにこんな良い思いをするのかが不思議でした。
タクシーという密室から起こる悲劇?と、ドライバーの日常を描いた部分は、さすがに上手いと思います。
人間の持つ限りない欲望が描かれた、一冊でした。
次に今読んでいるのが同じ作者の、タイの裏社会で横行する人身売買をテーマにした「闇の子供たち」。
これを原作として江口洋介、宮崎あおい主演で、阪本順治監督により映画化されています。
中古のテレビや冷蔵庫を買っただけくらいのほんのわずかのお金の為、親孝行の名前のもとに10歳にも満たない子供達が簡単に売られていく。
その先は暴力と恐怖に支配される夜の世界。子供達は毎晩、大人達のおもちゃになってしまうというもの。こちらは更に、重い内容となっています。
かつて自分の訪れたあの大好きな国が、フィクションとは言えまさかこれほどまでに深刻な問題を抱えているなんて。
最初は2000年に母と格安ツアーで、次はその4年後にお友達に誘われて(この時は豪華ホテルに、エステやマッサージ、ショッピングとマダ~ムな旅でした)と、二度ほど遊びに行きました。
わずか数年に関わらず町や車がすっかり綺麗になってしまっていたから、その経済発展の早さには驚かされましたけれど・・・・
確かにその時に私達を見るときの、タイの人々の何とも言えない無気力な、空虚な眼差しには思わずたじろいてしまったことが思い出されます。
仲良しになったガイドさんが「一度、日本に行きたい」って言った時に、一緒の友達は「日本に来たら、私の家に泊まって」と返事をしていましたが、「彼女のお給料で日本まで来る事って、夢で終わってしまうのでは」と私は思ってしまって、次の言葉が出ませんでした。
こちらもまだ途中ながら・・・富むものと富まざるものとの対比、お金に対する大人たちの欲望の深さが書かれているかと思います。
こんなディープなお話ばかりを続けて読む私、私の心もかなり病んでいるということかな
「アンボス・ムンドス」桐野夏生著 [本]
前回の「東京島」に引き続いて、またも桐野夏生作品です。
本作は短編集。そのどれもが、この作者に相応しい毒のあるものばかり。
「アンボス・ムンドス」には、七つの短編が収録されています。
表題作の「アンボス・ムンドス」は、人生で一度だけ思い切ったことをしようと小学校教師は不倫相手の教頭と相談して夏休みにキューバにふたりで旅立った。
ハバナでふたりの宿泊したホテルの名前が「「アンボス・ムンドス」。ここは、かつてヘミングウェイが滞在していたホテルとして有名なホテルなのだとか。
そして「アンボス・ムンドス」とは、両方の世界、新旧ふたつの世界という意味の言葉だそう・・・・・
その言葉通りに夢のような時を地球の裏側で過ごして帰国した2人を待っていたのは、担任していた女生徒の死と、周囲やマスコミからのからの非難の嵐であった。
ここで彼女が語った事件の意外な真相とは・・・担任していたクラスで女性徒達に最も嫌われていたのは、亡くなったサユリよりも自分であったこと。それに全てが計画的に仕組まれた事がきっかけとなって起こった事故であると気づくのです。
小学生とは言え自らの中へ毒を隠し、時に巧妙に使う。、多感な年頃の少女たちの内面の深さ、悪意を描いたのが表題作である。
「植林」は、暗い性格で自分の容姿にも能力にも自信がなく、常におどおどと行動するしかない24歳の宮本真希が主人公。
パート先ではことごとく失敗を繰り返し、狭い両親と暮らす狭い家に兄夫婦が入り込んできたことによって家でも居場所がなくなってしまう。
そんなある日、彼女は子供の頃重大な事件に巻き込まれていた事を思い出します。
冴えない自分、みんなにバカにされている自分が、ある事件では重大な役割を担っていたことを。
真希の持つコンプレックスと胸の奥底にしまいこまれた無意識の憎悪、負のオーラは、今の自分には充分に共感できるもの。そして強く変身をした真希にも。
容姿にもその他の面でもなんの取り柄もない、こんな自分は一体どうすればいいのだろうかと思えた若き日の頃を思い出すのです。フッフッフッ!これが私には快感とも言えるのだ!
「浮島の森」は、作家の谷崎潤一郎と佐藤春夫、谷崎の千代夫人との間に起きた「妻譲渡事件」その後がストリーのモチーフであると思われる。文学史上において有名なかの事件を下敷きにしたものです。
ここでは娘の藍子が小説の主人となる。
自分は、谷崎家の人なのか、佐藤家の人なのか、どっちつかずの中で長い年月過ごさなくてはならなかった心の葛藤が丹念に描かれています。このタイトルは、正にその心情を表すものであるかと。
収められた中では、この話に最も上品さが感じられました
人は誰でも表面に出したくない内面の不満や負の部分、奥底にある汚い部分を持つものと思います。
そこで作者は素材となるイメージを素に別の物語を構築していく、その手法はいつもながら見事である。
リアルな創造力で、誰しもが身に着けているであろう人の心の奥底にある毒々しさを、思い切り出してしまいます。生々しい生き方を描くのは、相変わらず上手いです。
深く、ねっとりとした独特なダークな感じも、健在だと思った。
特に女性にはお勧めの、刺激的な一冊である
映画化やテレビドラマ化されてる初期の代表作である「OUT」、またそれ以前に書かれた「柔らかな頬」もされているらしい。
本作は短編集。そのどれもが、この作者に相応しい毒のあるものばかり。
「アンボス・ムンドス」には、七つの短編が収録されています。
表題作の「アンボス・ムンドス」は、人生で一度だけ思い切ったことをしようと小学校教師は不倫相手の教頭と相談して夏休みにキューバにふたりで旅立った。
ハバナでふたりの宿泊したホテルの名前が「「アンボス・ムンドス」。ここは、かつてヘミングウェイが滞在していたホテルとして有名なホテルなのだとか。
そして「アンボス・ムンドス」とは、両方の世界、新旧ふたつの世界という意味の言葉だそう・・・・・
その言葉通りに夢のような時を地球の裏側で過ごして帰国した2人を待っていたのは、担任していた女生徒の死と、周囲やマスコミからのからの非難の嵐であった。
ここで彼女が語った事件の意外な真相とは・・・担任していたクラスで女性徒達に最も嫌われていたのは、亡くなったサユリよりも自分であったこと。それに全てが計画的に仕組まれた事がきっかけとなって起こった事故であると気づくのです。
小学生とは言え自らの中へ毒を隠し、時に巧妙に使う。、多感な年頃の少女たちの内面の深さ、悪意を描いたのが表題作である。
「植林」は、暗い性格で自分の容姿にも能力にも自信がなく、常におどおどと行動するしかない24歳の宮本真希が主人公。
パート先ではことごとく失敗を繰り返し、狭い両親と暮らす狭い家に兄夫婦が入り込んできたことによって家でも居場所がなくなってしまう。
そんなある日、彼女は子供の頃重大な事件に巻き込まれていた事を思い出します。
冴えない自分、みんなにバカにされている自分が、ある事件では重大な役割を担っていたことを。
真希の持つコンプレックスと胸の奥底にしまいこまれた無意識の憎悪、負のオーラは、今の自分には充分に共感できるもの。そして強く変身をした真希にも。
容姿にもその他の面でもなんの取り柄もない、こんな自分は一体どうすればいいのだろうかと思えた若き日の頃を思い出すのです。フッフッフッ!これが私には快感とも言えるのだ!
「浮島の森」は、作家の谷崎潤一郎と佐藤春夫、谷崎の千代夫人との間に起きた「妻譲渡事件」その後がストリーのモチーフであると思われる。文学史上において有名なかの事件を下敷きにしたものです。
ここでは娘の藍子が小説の主人となる。
自分は、谷崎家の人なのか、佐藤家の人なのか、どっちつかずの中で長い年月過ごさなくてはならなかった心の葛藤が丹念に描かれています。このタイトルは、正にその心情を表すものであるかと。
収められた中では、この話に最も上品さが感じられました
人は誰でも表面に出したくない内面の不満や負の部分、奥底にある汚い部分を持つものと思います。
そこで作者は素材となるイメージを素に別の物語を構築していく、その手法はいつもながら見事である。
リアルな創造力で、誰しもが身に着けているであろう人の心の奥底にある毒々しさを、思い切り出してしまいます。生々しい生き方を描くのは、相変わらず上手いです。
深く、ねっとりとした独特なダークな感じも、健在だと思った。
特に女性にはお勧めの、刺激的な一冊である
映画化やテレビドラマ化されてる初期の代表作である「OUT」、またそれ以前に書かれた「柔らかな頬」もされているらしい。
「東京島」桐野夏生著 [本]
クルーザーで世界一週旅行に出た中年夫婦,漂流の末にたどり着いたのは太平洋上の絶海の孤島。
三ヶ月後、23人の若い男が島に流れ着く。
その後は中国人たちも漂流してくるのだが、島にいる女性はこの小説のヒロインである清子ひとりだけである事実は変わらない。
いつまで待っても無人島に助け船は来ず、いつしかだれもが島を「トウキョウ島」と呼ぶこととなる。
数十人の中で女性がただ一人との設定は、大平洋戦争末期・昭和19年のサイパン付近の孤島・アナタハン島で実際に起こった事件がモデルとなっていると思われる。
以前吉村明の「漂流」や、井上靖の「おろしや国酔夢譚」を読んだ時に、このような事実があったことを私は知りました。
その時にはチョッとした驚きもありましたが、事実ファイりピン近くの島からは、あの「横井さん」「小野田さん」等、数十年後に発見されている例もあるですから・・・
月日と共に日本の若者たちは仲のいい同士で、ブクロ(池袋)やジュク(新宿)などの集落に分かれて生活する事になる。
彼らが生きるうえでの最低限の食べ物を得る以外、生きがい探しに走るところはいかにも・・・と感じた。
それに対して後から漂着した中国人たちは、日本人よりも食に対して貪欲であり、生き延びるにも長けた技術を持ちあわせている。
実際の事件を元にしたとは言っても、閉鎖的な無人島で人間の本性がむき出しになるというのはありがちな設定であり、ストリー展開にもこれと言った驚きは特にない。
生にすがりつく人々の姿、中でもヒロイン・清子の持つしたたかさ、強さ、ずるさと、弱さと、人の極限状態の描き方。この作者ならではの人物描写の容赦のなさは勿論健在である。
たくましく自活の道を見いだすホンコンと呼ぶ中国人グループに比べ、自らがそうであろうとする事もなく、強いリーダーを見いだすことも出来ずにいる日本人達。
今の私達の毎日、この一見現代文化の真っ只中を生きていると見える生活の中にも、サバイバルな部分はやっぱり勿論あります。
このトウキョウ島は、現代の縮図のようにも見えてきます。
読んでいる途中から、私達が世界中のどこに住もうと、どこへ行ってもこの島・東京島のようなものかもとも思えてくるのです。
島の男達の中からくじ引きで選ばれた清子の新しい夫・ユタカは、清子がホンコン達と島から脱出を試みた事が引き金をなり記憶を取り戻す。
自分を捨てられたショックから過去の自分が軍司という名前であり、どの様な過去があったかを思い出します。そして、図々しく変貌した清子との関係は冷めてきってしまうのだ。
ユタカと清子の立場は、何度も逆転をする。
島でただ一人の女性として圧倒的に有利な立場を享受していた清子も、年月の経過により男達から相手にされることもなくなってしまっていく皮肉。
力の弱い生活手段の少ない清子、その上40代後半での望まない妊娠。この辺りには女性持つ肉体の弱さがよく描かれています。
しかいラストまで読んでいくと、清子の持つ図太さには思わず笑ってしまうのだ。
子供を思う母の愛情に勝るものはないと良く言われること、しかしそんな母性なんかってきっと思わされることでしょう。
清子は、ユタカ、またはヤン、どちらかはっきりしない相手の子供を出産する。
脱出時にその双子の子のひとりの男の子・チーターを人質に取られてしまうものの、彼女は二度と島に戻ることはなかった。
50代で東京に戻ると(こちらは本物の東京)、過去を封印して占い師として成功を果たす。
彼女はそれまでの呪縛から逃れた、自分の経験から学習したのだ。
もうひとりの女の子・千希(チキ)は大学までストレートに進める中学受験にも成功して、母親清子同様の逞しさを持っていることが描かれる。
この母子にとっては、トウキョウ島に置いてきた父親も双子の一人の男の子も、全ては過去でしかない。
ラストまで毒をたっぷり盛り込んだのも、作者のサービス精神の表れなのでしょうか。
この作者の実際の事件を元にした最高傑作は、東電OL殺人事件をモチーフにした「グロテスク」だと思っています。
今回の作品は、あれに比べると大分落ちるかな。
それでも相変わらずの毒のある作品を書いているなと思ってしまう、そんな安心感は残りました。
これの前、東野圭吾の「さまよう刃」も読んでいるのですけれど、あまりにも暗い題材、救いのない最後と・・・・
読み始めると、ぐいぐいと引っ張られてしまう力量は感じるものの、こちらはあまりお勧めは出来ないように思います。
三ヶ月後、23人の若い男が島に流れ着く。
その後は中国人たちも漂流してくるのだが、島にいる女性はこの小説のヒロインである清子ひとりだけである事実は変わらない。
いつまで待っても無人島に助け船は来ず、いつしかだれもが島を「トウキョウ島」と呼ぶこととなる。
数十人の中で女性がただ一人との設定は、大平洋戦争末期・昭和19年のサイパン付近の孤島・アナタハン島で実際に起こった事件がモデルとなっていると思われる。
以前吉村明の「漂流」や、井上靖の「おろしや国酔夢譚」を読んだ時に、このような事実があったことを私は知りました。
その時にはチョッとした驚きもありましたが、事実ファイりピン近くの島からは、あの「横井さん」「小野田さん」等、数十年後に発見されている例もあるですから・・・
月日と共に日本の若者たちは仲のいい同士で、ブクロ(池袋)やジュク(新宿)などの集落に分かれて生活する事になる。
彼らが生きるうえでの最低限の食べ物を得る以外、生きがい探しに走るところはいかにも・・・と感じた。
それに対して後から漂着した中国人たちは、日本人よりも食に対して貪欲であり、生き延びるにも長けた技術を持ちあわせている。
実際の事件を元にしたとは言っても、閉鎖的な無人島で人間の本性がむき出しになるというのはありがちな設定であり、ストリー展開にもこれと言った驚きは特にない。
生にすがりつく人々の姿、中でもヒロイン・清子の持つしたたかさ、強さ、ずるさと、弱さと、人の極限状態の描き方。この作者ならではの人物描写の容赦のなさは勿論健在である。
たくましく自活の道を見いだすホンコンと呼ぶ中国人グループに比べ、自らがそうであろうとする事もなく、強いリーダーを見いだすことも出来ずにいる日本人達。
今の私達の毎日、この一見現代文化の真っ只中を生きていると見える生活の中にも、サバイバルな部分はやっぱり勿論あります。
このトウキョウ島は、現代の縮図のようにも見えてきます。
読んでいる途中から、私達が世界中のどこに住もうと、どこへ行ってもこの島・東京島のようなものかもとも思えてくるのです。
島の男達の中からくじ引きで選ばれた清子の新しい夫・ユタカは、清子がホンコン達と島から脱出を試みた事が引き金をなり記憶を取り戻す。
自分を捨てられたショックから過去の自分が軍司という名前であり、どの様な過去があったかを思い出します。そして、図々しく変貌した清子との関係は冷めてきってしまうのだ。
ユタカと清子の立場は、何度も逆転をする。
島でただ一人の女性として圧倒的に有利な立場を享受していた清子も、年月の経過により男達から相手にされることもなくなってしまっていく皮肉。
力の弱い生活手段の少ない清子、その上40代後半での望まない妊娠。この辺りには女性持つ肉体の弱さがよく描かれています。
しかいラストまで読んでいくと、清子の持つ図太さには思わず笑ってしまうのだ。
子供を思う母の愛情に勝るものはないと良く言われること、しかしそんな母性なんかってきっと思わされることでしょう。
清子は、ユタカ、またはヤン、どちらかはっきりしない相手の子供を出産する。
脱出時にその双子の子のひとりの男の子・チーターを人質に取られてしまうものの、彼女は二度と島に戻ることはなかった。
50代で東京に戻ると(こちらは本物の東京)、過去を封印して占い師として成功を果たす。
彼女はそれまでの呪縛から逃れた、自分の経験から学習したのだ。
もうひとりの女の子・千希(チキ)は大学までストレートに進める中学受験にも成功して、母親清子同様の逞しさを持っていることが描かれる。
この母子にとっては、トウキョウ島に置いてきた父親も双子の一人の男の子も、全ては過去でしかない。
ラストまで毒をたっぷり盛り込んだのも、作者のサービス精神の表れなのでしょうか。
この作者の実際の事件を元にした最高傑作は、東電OL殺人事件をモチーフにした「グロテスク」だと思っています。
今回の作品は、あれに比べると大分落ちるかな。
それでも相変わらずの毒のある作品を書いているなと思ってしまう、そんな安心感は残りました。
これの前、東野圭吾の「さまよう刃」も読んでいるのですけれど、あまりにも暗い題材、救いのない最後と・・・・
読み始めると、ぐいぐいと引っ張られてしまう力量は感じるものの、こちらはあまりお勧めは出来ないように思います。
タグ:東京島 桐野夏生
「剱岳 点の記」新田次郎著 [本]
弘法大師が草鞋千足を費やしても登頂できなかったという伝説の残る・・・立山信仰においては「登れない山、登ってはならない山」とされていた剱岳。
記録に残る剱岳への初登頂は、今から約100年前の1907年。
陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎隊によるものだと言う。
明治40年の夏、測量隊の中から選ばれた生田測夫らが登頂し、続いて柴崎本人が登頂に成功した。
しかし最初の登頂の際に錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖が発見され、古い焚き火跡もあったという。
それらの遺物は、数百年前の修験者のものと考えらている。
「点の記」とは日本地図作成に際して、各地点ごとの測量をするために作られた三角点設定の記録のこと。
その当時の日本地図において、最後の空白地帯であった剱岳周辺。
これは、明治40年にその地に三角点を設置した測量官達の物語である。
時を同じくして剱岳登頂を目指す日本国内で発足したばかりであった日本山岳会、柴崎が受けたのは彼らより先んじなくてはならないとする絶対命令であった。
しかし柴崎はそれを自らに課せられたものとして、剱岳周辺の地図作成の為の測量をする。
定めた目的にむかって、着々と任務を遂行する 柴崎。
その当時は地図そのものさえ知らない人もいたであろう。
日本地図の空白をうめる、地図作成のためには不可欠な測量という仕事。山岳会との初登頂争い、案内する山人の住む芦峅・岩峅に伝わる立山信仰と・・・・・
仕事としての登山であるのだからただ登って終わりという訳でないことは当然ではありますが、私の想像を越えた事実。
限られた日程、限られた予算に押さえつけられながらも、自分達の肉体を酷使して出した結果。
未発達な測量技術と登山装備などは・・・今のように道路や車があるわけでもない。
現在でしたら三角点の為の重い標石や、やぐらを組む為の木材の運搬など、ヘリを使ってしまえば済む事であるのですけれど。
険しい山肌を上るためには、登頂の時期をあえてまだ雪の残る春から梅雨の終わりと決めた柴崎。
何週間も雪上に天幕を張り、我々には想像もつかない貧しい衣服、食料でその生活に耐えるのです。
結果としていざ剱岳の山頂には立ったものの、岩場の険しさから重い三角点標石を運び上げることができず、三等三角点の設置を断念して標石のない四等三角点とするしかありませんでした。
山麓の山案内人とともに測量に挑んだ男達、山岳信仰から剱岳を畏怖する地元住民の反発。
登頂までの山での日々、悪天候・雪崩などの厳しい自然環境。
ガレだらけの切り立った尾根へは、草履さえもぬぎ裸足で横ばいになって上るしかなかった。
そんな様々な困難と戦いながらも、測量を行う。
与えられた仕事に、誇りと、勇気、信念を持ってひたむきに取り組む姿が描かれています。
この夏映画が公開されるというだけで手に取った本でしたが、読んで良かったと思いました。
現代の日本人が失くしてしまった?主人公の真摯な生き方。
大仕事を成し遂げたに関わらず、心の中では歓びよりも哀歓の方が強く感じられたとするその心境はやるせない。
現場のことを知らない上層部の人々がただ机上の上から指令を下し、その結果へも世間体や自分達の保身を最優先してしまう。
事実の重みに対しても冷淡な反応しか示さないところなど、組織のもつ様々な面も描かれていました。
富士山は車で上がれる五合目まで、登山と言える経験は尾瀬の燧ケ岳、日光の男体山だけしかない私ですが・・・・
小説の主人公達と同じような状況で登山をして撮影した映画も、見たい気持ちが強くなりました。
先に書いた「ターミネーター4」、ケイト・ウィンスレット・レイフ・ファインズ主演の「愛を読むひと」、日本映画の「剱岳」、どれも見たい映画ですね。
タグ:剱岳 点の記 新田次郎
「むこうだんばら亭」乙川優三郎著 [本]
「むこうだんばら亭」とは、その先にあるのは太平洋の大海原、陸地の先端・とっぱずれにある小さな居酒屋「いさな屋」のこと。
店の主人孝助は、旅の途中で身請けした元・女郎のたかと、銚子へ流れ着きます。
イワシや醤油で賑わう銚子の町のはずれで居酒屋を開き、裏では桂庵(雇い人・奉公人の斡旋をする仕事。ここでは女衒にちかいかと)を営む。
店は、夜ごと寄る辺なき人々が集う。
江戸時代の漁は、港は小さく、今のような防波堤もなく、夜ともなれば灯りもない。
漁夫や船頭たちは神に祈りをささげながらも難所をすり抜けて、落ちれば死ぬ海を相手に生きてきたのだった。
しかし、ここでの主人公は、その影で生きる女性達。
他にどこにも行きようのない、人生の瀬戸際を彷徨う女達の生が息づいている。
私には特に、「散り花」のすが、「古い風」のあさがの生き方が印象深く思えました。
逞しくて、潔さがあるが、時には虚無もあり、それぞれに忘れがたい味わいが残ります。
好意を持ちつつも互いの過去ゆえに、周囲からは当然に夫婦と見られながらも実際には他人のままで生活をする、孝介とたか。
それぞれの心の中まではふみ込めない、意識してふみ込めずにいるふたりの関係は微妙だ。
それが、読んでいる間中ずっと気になります。
しかし最終の「果ての海」にて、養女を迎えるからには自らも家庭を持とうとする孝介。
たかにその気持ちを伝えて、今後は夫婦となる事をふたりで決心する事により、この物語は終わるのです。
その後ろに控える海の大きさに比べて、登場する人々と同じくこの作品の中には派手な文章も語彙もありません。
先のミステリーにしても、この時代ものにしても、最初のとっつきの悪さから敬遠してしまう方は多いかと思われますが・・・
時代背景が、ただ江戸時代となっているだけ。
そこに描かれる市井に生きる人々の姿、現代を生きる我々に共通するところは多いものと思える。
作者は2001年「五年の梅」にて第14回山本周五郎賞、2002年「生きる」にて直木賞受賞。
現在、朝日新聞に「麗しき果実」を連載中。
毎回の挿絵の美しさに惹かれてはいるものの、こちらは読んではおりません。
単行本化でもされたら、読む事にしましょうっと
「沈底魚」曽根圭介著 [本]
今日は読み終えたばかりの本、曽根圭介作品「沈底魚」の紹介をします。
この作品は昨年度の第53回江戸川乱歩賞受賞作品、私が手に取ったのも本の表紙にこの記述があったからと言う単純な理由です。
意味深なタイトルの「沈底魚」とはスリーパー=眠れるスパイ。普段は市民として潜伏しているが、いざというときにはスパイとして仕事をすることを言うらしい。
総理候補とされる国会議員が中国へ情報を流していると言う、アメリカに亡命した中国人外交官の証言からこの物語は始まります。
極秘情報を受けて、動き出す公安刑事たち。
それは、たたのガセネタであるかも知れません。
しかし、何とか沈底魚をあぶりだそうとする公安部の現場捜査官達の、日本・中国・アメリカ三国間の国際的な諜報戦に翻弄される物語が始まるのです。
主人公の不破は、中国・北朝鮮のスパイ活動を監視する公安部外事二課に所属する、アウトローな刑事。
この人物設定はありきたりです。
「沈底魚」の正体とは?名指しされた大物政治家か、それとも中国による偽装工作か・・・・
このテーマにして、ストーリーが、特にラストでは二転三転します。
ひとりの人物が二重スパイ、三重スパイの可能性を持つものであったなら、「味方となるのは」、「真実とは?」
主人公・不破が信ずるもの、人との関係全てにおいても、気持ちの揺らぎは仕方のないものであることでしょう。
読み始めは登場人物の多さに引き気味であった私も、後半からこの世界に引き込まれていきました。
警察小説・公安小説と言ったらまず思い出されるのは、私も一時はまってしまった横山秀夫作品です。
これは横山作品に比べると、本書はどこか少し見劣りがする、もっと読みたいと思う魅力がなかったかな。
ただひたすら地を這うような捜査方法は古臭い。頭脳的なものが見受けられません。
それはそれでと割り切る事は可能でも、読み初めに私がイメージしたよりも作品全体のスケールが小さかったように思います。
30年前の伝説のスパイ・シベリウス=一色にしても、人物像がもう少し狡猾であって欲しかった。
同僚の若林、ベテラン刑事の五味等のキャラクターは、良く描かれていたと思うのですが、現場捜査員は使い捨てとする警察庁から来たキャリア理事官の凸井のキャラクターはただ思わせぶりなだけ。
現場で働く捜査員の体質の古さ、意味を持たない中間管理職の存在、対立する警察庁と警視庁。それに対する永田町の構図、その辺りは解りやすく書かれています。
そして、後半近くにスリリングな展開があり、途中からはテンポも良くなってきます。
最後に、不破がとった行動とは・・・・
巻末に選考委員・綾辻行人・大沢在昌・恩田陸・真保裕一・天童荒太それぞれの選考理由が書かれています。
それぞれの委員達の読み方が興味深く、さすがとの思いがしました。
そう言えば、以前読んだ翔田寛の「誘拐児」は第54回江戸川乱歩賞受賞作品でした。あの本よりは後味も良く、面白く読めたような気がします。
タグ:曽根圭介 沈底魚
「家なき娘」エクトール・マロー著 [本]
今日は、少々変わった本の紹介をします。
児童書で、フランス人作家・エクトル・マローの「アン・ファミーユ家なき娘」です。
子供向けの本「家なき子」はエクトル・マローの代表作ですが、そのの姉妹編のようなものかと考えます。
私が何時も本を借りに行く、地域の市民センター内の図書コーナー。
この本、そこで偶然にも目に留まり手に取ったものでしたが、数日で読んでしまいました。
フランス人の父とインド人の母を持つ少女ペリーヌが、この本の主人公。
ペリーヌは両親と共にインドから、父の故郷であるフランスのマロクールへ旅立ちます。
しかし先に父がボスニアで・・・続いて母も、娘の行く末を案じながらパリで息をひきとるのです。
マロクールに住む祖父ヴュルフランは大きな紡績工場の経営者です。
でも愛する息子が自分の意に染まぬ結婚をしたが為に、親子は絶縁状態でありました。
一人ぼっちになったペリーヌは母の遺言もあり、まだ見ぬ祖父を頼って祖父のいるマロクール目指し旅を続けるのでした。
いくらしっかりものとはいえ12歳の少女が、着のみ着のまま一人で旅を続ける。
マロクールへの旅の道中は悲惨そのものです。
パン屋のおばさんには持っていたお金を騙し取られて電車賃も持たないペリーヌはひたすら歩くのですが、食べるものどころか飲み水もなくて石を口に含んで喉の渇きを誤魔化したり、とうとう餓死寸前となってしまうのです。
力尽きて倒れた森の中でパリまで一緒に旅を続けてきたロバのパリカールに助けられ、古着屋・くず屋のルクリの手伝いをしながらようやくマロクールへ辿り着くペリーヌ。
しかし自分が受け入れられるかを心配する彼女は、すぐには祖父に会いに行きません。
「オーレリー」と名を変えて、その工場でトロッコ押しの仕事をするのです。
祖父の経営する工場で働くことを決めたペリーヌ。
工場での労働のあとには、休養する為にはベッドが必要となります。
友達となったロザリーの勧めで、最初の夜は工場労働者達が住み着いているアパートのような共同部屋で寝ますが。
一日中くたくたになるほど働いた後でも、ベッドとベッドの間は人が通るのもやっと。
居場所は借りたベッドの上だけと言う有様の中で、眠るのです。
ペリーヌとともに我々読者もここで、当時の労働者の生活、宿屋の実体を知ることになります。
私もあの当時のフランスの人々の暮らしがいかに不衛生であったか、劣悪な環境の宿屋での惨めなその日暮らしの有様を痛感しました。
一晩だけやっとの思いで過ごした共同部屋、そこを出たペリーヌ。
ずっと共同部屋にいたなら身体も休まらず、そのままで働く事が出来なくなったならば工場も解雇されてしまいますもの。
それはペリーヌにとっては、あらゆる希望が断たれるということです。
ペリーヌが自ら見つけた池のほとりの狩猟小屋で、自給自足の生活をするところ。
そこでのまるでおままごとの様な生活は、私も共に楽しみました。
何も生活道具を持たない彼女が、そこでは下着や靴までを自分で作ってしまうのです。
小屋の周りで茂っている葦を編んでその上には厚地の布を縫い付けて、素敵なエスパドリーユ(夏用のリゾートサンダル)を作り上げたばかりか、スープ用のお鍋、その時使うスプーンも捨てられていた缶を拾って作り出してしまう。・・・とここまで読んで、何時であったかは忘れたものの・・・この本は読んだと思いました。
でもそれが何時であったか思い出せないのが、悲しいところです
小屋では誰にも邪魔されることはない代わり、全てを自分で考えて、生活する事を繰り返さなくてはなりません。
英語が出来ることから工場の通訳となったペリーヌは、持ち前の賢明さを発揮して、彼を感嘆させ信頼を寄せられるようになってくるのです。
運命がペリーヌを祖父に近づけますが、そこには敵となる人物・テオドール、カジミール、タルエルと三人の手強い大人達がいる。
お坊ちゃんでだらしないテオドールやカジミール、有能なのでしょうけれど最も危険なタルエル。
この甥達二人とタルエルの前ではペリーヌは隙を見せないようにし、時はバカの真似までもしなければならなかったりする。
目的にむかって今は何をすべきか、ペリーヌには常に現実的な選択が必要なのです。
読者にはそれが、ここまで来てもさえの苦難と試練の連続とうつってしまいます。
ヴュルフラン氏はその莫大な財産と冷徹さゆえに孤独であったから、信頼できる人物がそれまではいなかった。
そんな彼に手を差し伸べるペリーヌ、彼女の優しさがヴュルフランを変えて、工場も変えていきます。
ここには、家族の存在の大きさが描かれています。
物語の最後、祖父のもとで幸せになるペリーヌ。
子供向けとはいえ、彼女の心理描写はきちんと描かれています。
しかし目的にむかって進むペリーヌには、年齢相応の子供っぽさはありません。
物の本質をしっかりと見極める目と、状況を把握する力が備わっているのです。
美しく聡明で、貧しい中でも上品に振舞うペリーヌの姿は、祖父だけでなく誰にでも受け入れられるもの。
危険な状況でも目の前に打開すべき道がすぐに広がるなど、安易なストーリーではあるものの、子供だけでなく大人もともに楽しめる物語かと思います
少女がひとりぼっちでも常に努力をし、最低の生活から自らの手で幸せをどう掴み取ったかが、良い意味で生き生きと描かれている本でした。
このお話は「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「小公女セーラ」などの「世界名作劇場シリーズ」の中でも放送されました。
フジテレビ系で放映されたアニメです。ここでは「ペリーヌ物語」となっていたそうです。
本屋さんや、図書館では、時にはこの本とのような思わぬ出会いがあります。
そこが楽しかったりして
私がいわゆるベストセラーとなる本を敬遠してしまう理由も、こんなところにあるのでしょうか。
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